何かの都合で、仲良しグループの中に、見ず知らずの自分が一人加わったとしたら、
気を使うでしょうし、気まずかったり、なんとも収まりの悪い感覚を覚えるのではないでしょうか。
自分という存在に安心感を持っている、比較的、落ち着いた人であっても、
和気あいあいとした仲良しグループに、初対面の自分が、ポン、と加わることになったら、どうしても慣れ親しんだ人と居る時の様に、リラックスは出来ないでしょう。
つまり、よそ行き、になってしまう訳です。
勿論、人間関係に於いて、他者との心理的な距離感は大切ですから、
初対面でいきなり、ひどく馴れ馴れしいよりは、多少緊張感を持っている方が自然ですし、適切な場合が多い様に思います。
ところが、この人間関係の距離感がまるで測れない人も少なくありません。
おそらくは、心に確かな【自分】という意識、が根付いていないのだと思います。
この確かな【自分】という意識、の外郭線が、自分と他者を心理的に分ける【感情の境界線】です。
【自分】が育ち、根付いていれば、必ず【感情の境界線】は明確に引かれています。
【自分】が育っているけれども、【感情の境界線】が曖昧、ということや、
【自分】は無いのに、【感情の境界線】が明確、ということは、あり得ません。
【自分】と【感情の境界線】はワンセットと言えます。
【自分】が育っておらず、【感情の境界線】が曖昧な人は、
生まれた時から、【自分】を持つことを禁じられたまま、育ったものと思います。
自分の感情を諦めて、親の感情を常に優先しなければならない環境に育ったのだと思います。
泣きたい時に、親が笑うことを望めば、自分の感情を諦めて、親が望むとびきりの笑顔を作る様な毎日を過ごせば、
心の中に【自分】が育つことはありません。
心のど真ん中には、【自分】の代わりに、親が、どっかと居座ります。
【自分】が育たないのですから、ワンセットである【感情の境界線】も極めて曖昧です。
【感情の境界線】があって初めて、「ここからは私の領域」という範囲が決まり、
自分の【感情の境界線】から、他者の【感情の境界線】までの心理的な距離を測ることが出来ます。
時に、測り損ねる事があっても、微調整を加え、適切な距離を探し出します。
【自分】が無く、【感情の境界線】が曖昧な人は、初対面から相手の心理的な領域に、ズカズカ踏み入ろうとしたり、
逆に自分の方から、あまりにも遠い距離を取ったり、
更には、自分の領域に他者が踏み込むことを容易く許したり、
領域を侵すつもりも無い人を警戒したり、攻撃したり、
とにかく、人間関係を構築することが極めて難しくなってしまいます。
人の悩みの殆どは人間関係、とさえ言われるのに、
【自分】と【感情の境界線】を持たない人は、人生を、目隠しをして、行き当たりばったりの当てずっぽうで歩く様なものです。
ただでもその人は傷ついています。
【自分】を持つこと、
言い換えるなら、
自分が自分であること、
を捨てざるを得なかった環境によって、その人は心に、既に大きな傷を負っています。
そして、更に、目隠しをして歩む人生で、人間関係という壁にぶつかっては傷つき、時に転んで、また傷つきます。
そうやって傷の上に傷をこさえながら歩き、
やがて動けなくなってしまいます。
やがて動けなくなる程の傷なのに、その人は傷が有ることに気がつきません。
幼い頃には既に傷だらけで、傷が痛まない状態を知らないから気がつき様が無い、のです。
その人は、痛みに気がつきません。
無数の傷の、痛みには気がつかなくても、
なぜか、とても苦しいのです。
なぜか、とても寂しいのです。
なぜか、とても虚しいのです。
重たい生きづらさを抱えて歩けば、
それは苦しい筈です。
子供らしい感情を全部捨てたのですから、
それは、寂しい筈です。
自分であること、を取り上げられたのですから、
それは、虚しいに決まっています。
でも、その人はずっとそうだったから、気がつきません。
生きづらさを手放すとき、自分と向き合います。
生きづらさの根っこを見つけて、腑に落とし、決断して生きづらさを手放します。
しかし、先ず最初にして、最大の難関は、
自分が傷だらけになって、それでも今日まで生き抜いて来た、ということに気がつくこと、です。
自分の生きづらさを、見つけること、です。
見つけたなら、必ず自分と向き合いたくなります。
根っこを辿って腑に落ちたなら、手放す決断など容易いのです。
何故なら、
気づいた人は既に尊く、
気づいた人は幸せになるべく、
生まれた人なのですから、
だから、
光りに届きます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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