ある日を境に、ぼくは筋トレを始めた。
きっかけは、漠然とした不安
ぼくは今、週に2回ジムに通うようにしています。
きっかけは、この先どれだけ自分がクオリティを保った仕事ができるかについて、漠然とした不安に襲われたことでした。
鍛えることで、身体を研ぎ澄ませられないか、と思ったんです。
最後に筋トレをしていたのなんて、大阪に住んでいた10年前に遡ります。
価値創造のために、なにが必要か
ぼくの仕事は、生きてきたなかでインプットしてきたものを編集してアウトプット(=価値の創造)すること。
相手の話に耳を傾けて、経験と関連づけながら、瞬時に答えを提示したい。だから、感覚が鈍ることが一番怖いんです。
筋トレをしているときは、「自分の感覚がよくなっているか」「物事を心地よく考えられるか」をとても大事にします。
そうした基準で身体と向き合っていると、発見の連続で面白い。筋トレを始めてあっという間に半年が過ぎていました。
価値をつくるとは、再構築の連続
ゼロベースで新しいものにチャレンジしていたのが、10代から30代。これからは、すでにあるものを掛け合わせながら価値を生み出すフェーズだととらえています。
「まだ見たことのない世界(体験)をつくりたい」。昔から抱き続けている思いです。ただ、その手法が変わったんです。
足元に目を向ければ、十分とは思わないですが、数え切れないほどの経験があります。編集して、新たな価値を生み出していけるだけの素材をたくさんもっていることに、少しだけ気がつけたんです。
斬新なアイディアよりも、世の中にすでにあるものを利用する。これまで打ってきた点と点を結びつけていく。ぼくたちが聴いている最近の音楽も、いくつものジャンルがかけ合わされてつくられていますよね。
ただ、経験を活かすときには注意が必要です。油断していると、過去はどうしても都合よく解釈されがちなので。過去に引っ張られ過ぎないように、生命体としての自分を常に蘇らせておきたいです。
「新しいもの」を外部に求めてきた
10代で社会に飛び込んだぼくは、常に目線を上げながら、次々と挑戦してきました。音楽の世界で食べていきたいという夢が破れてしまった分(人生最大の挫折でした…)、余計に夢中になれるものを探す必要がありました。
やったことがないもの、面白そうなもの、この世にまだ存在しないもの…。そうした新しくて刺激的なものを、自分の外へ外へと探し求めていました。
思い描く世界を実現するために、ひたすら本を読んだり、スキルやテクニックをどんどん磨いていきました。
そうやってがむしゃらに生きるなかで、大きな2つの変化がありました。
膨らむ既視感
ひとつは、既視感を抱くことが増えたこと。
仕事においてもプライベートにおいても、「どこかで見たことあるな」「前に経験したな」って。
日々出会う様々なことに対して、心が大きく揺さぶられにくくなりました。
年を重ねていくにつれて、感動する確率はどうしても下がっていきます。そうなると、今までのように、ただ新しいものを外部に求めても、単純に自分が楽しめない。
ただ、この既視感は、憂うばかりではないんです。既視感があるということは、余白があると捉えることもできます。
何もかもが新しかった世界から、ちょっとの余白で視野角が広がった世界へ。そう思えば、能動的に楽しむという選択肢が生まれることに気づけました。これは、大きな思考の変化でした。
余白は、「余裕」とも言い換えられます。たとえば、逆境に立たされるとき。かつてのぼくは、心の真ん中をもっていかれるほど動揺して、ただただ足掻くしかありませんでした。
でも今は、経験を引っ張り出しながら、自分がやるべきことが見えてくる。闇雲に自分の能力を上げれば解決できるようなものではないことも分かる。40代は、自分のレベルの底上げをしたり、基盤をつくるフェーズは過ぎていますし。
主語が一人称ではなくなった
もうひとつの変化は、「自分のため」では頑張れなくなってきたこと。
30代までは、「自分のため」「自分がやっている」という感覚がもてないと、経験は血肉にならないと思っています。高卒で社会に出たぼくは、右も左もわからなくて、自分の能力を上げることに必死でした。自分のレベルが上がれば、ヴィジョンに近づけると信じて。
「世の中に爪痕を残したい」「アウトプットしたものが、こんなふうにニュースになってほしい」といった強烈な欲もありました。
いつしか、そうした自分に向かう強烈なエネルギー、いわば自己中心的な承認欲求が離れていくというか浄化された感覚があります。ポンっとなくなったんです。
そうしたとき、「誰かのため」が浮上してきました。
だからこそ、救われている自分がいる
誰がどう感じるのか。この場所がどうなったらいいのか。自分以外を主語に置いて物事を考えるようになりました。
今は、そこで出した答えが結果的に自分の方針になっているように思います。
そして、「誰かのため」に動いているつもりで、自分自身が救われている感覚も強いです。
声や音を聴くためのチューニング
いろんなところに足を運ぶと、なぜか相談を受けることがすごく多いんです(正直、ぼく自身が相談したいと思っているんですが笑)。
そうした人の声を聴くにしても、音を聴くにしても、身体がチューニングされていないと聴こえないと思っています。
外的な環境と自分が、どのように呼応しているのか。仕事をする上で、「身体性」は興味深いキーワードのひとつです。
余白を生み出すプロセス
筋トレを続けていて、物事や人に対してどこか余白が大きくなっている感覚があります。
もちろん、日々いろんなことが起きるなかで、ダメージを受けていることには変わりません。えぐられるような痛みだってあるし、傷自体は、相変わらず痛いし辛いです。
でも、身体のコアがしなやかな強さを帯び始めてきたからか、気持ちの切り替えはしやすくなってきています。
身体と向き合う時間が、仕事でのぼくをゆるやかに変えていってくれています。
自分がどこまでいけるのか、まだ不安を拭えたわけではありません。でも、現役であるうちは、ぼくに答えを求めて訪ねてくれる人たちがいる限り、踏ん張らなきゃなと思っています。