中井紀夫 掌編
SF、ミステリー、ホラー、恋愛話、家族話、いろいろアリの、奇妙な味の掌編集です。むかし連載で書いたショートショートをどこかに集めておきたくて、こんなページをつくってみました。
郊外の住宅街にある、狭いながらも庭つきの家。相原直美がそこに引っ越してきてから、数か月が経った。直美はあこがれていた一戸建てに住むことができて、すっかり満足していた。 夏の盛りが近づくと、窓の外に蝉の声を聞くようになった。日盛りを過ぎると、その声はいっそう高まり、まさに蝉時雨。都会のまんなかにいては味わえないそんな環境も、直美は気に入っていた。 ある日、家事を一段落させて、ほっと一息ついていると、蝉の声に混じって、遠く風鈴の音が聞こえてきた。それもひとつやふたつではな
夫の勤め先の電話番号を知らないことに、須藤敏恵はそのとき初めて気づいた。 電話機の番号簿や自分のアドレス帳を何度も繰ってみたが見当たらない。記載した記憶もない。 それどころか会社名さえ正確に思いだせなかった。 藤本商事だったか、藤田産業だったか……いや、産業の前に化学とか食品とか入っていたようでもあるし、フジタとカタカナ表記だったようにも思える……。 夫は仕事のことを話したがらない人間だった。 結婚当初はそのことを不審にも不満にも感じ、さりげなく水を向けたりもし
テニス・スクールに通う主婦たちのあいだで、ときおり山本さんというひとが話題にのぼった。 「それじゃ、まるで山本さんみたいじゃない」 話の途中でだれかが言うと、いあわせたみなが、いっせいに大きくうなずいて笑いあう。 場合によったら、だれかが、 「うふふ……山本さん……」 その名を口にしただけで、笑いが伝染して止まらなくなった。 そんなとき、篠塚弥生はいつもひとりぽかんとしてしまった。 スクールで知り合った主婦たちで、喫茶店でおしゃべりをしたり、カラオケを歌ったりす
私は毎朝おなじ時刻にそのバス停に行った。 乗客の列に並んでいると、いつもおなじ男がバス停の横を通りすぎていくのを見る。 会社員風だけれども会社員にしてはお洒落な茶色の服を着用し、口髭を蓄えた五十がらみの男だった。頑固そうな太い眉ととぼけた感じの口元が、アンバランスな印象の顔をしていた。背筋を正して気取って歩いているのに、ちょっと蟹股なのもおかしげだった。 その会社員氏のたどるコースが奇妙なものであることに、いつのころからか私は気づいていた。 バスは往復2車線の通り
会社帰りの電車のなかで、森田裕二は辞めた同僚のことを思い出していた。内山勉という名の、目立たない社員だった。 「窓を開けるのが怖いんだ」 退社するすこしまえ、内山はしきりにそんなことを言っていた。 「窓って、自分の部屋のか」 森田は訊いたことがある。 「そう。南側の窓」 「南側? おまえのアパート、どの部屋の窓も西向きじゃないか」 「いや、南側にあるんだ、窓が」 「おまえ、最近、引っ越した?」 「いや」 「それなら、おれが遊びにいったことのある、あのアパートだよな。あそ
男と目があったような気がした。 男は交差点の横断歩道にいて、野球帽をまぶかにかぶり、サングラスをかけていた。わたしはそれを見下ろすホテルの7階の1室にいた。 男がわたしのいるホテルに顔を向けたとき、目があったような気がした。 用事が早めに終わって、わたしは日のあるうちにこのホテルに入った。窓際で椅子に腰を下ろして、缶ビールを開けた。 出張のあいまに生じた、わずかだがゆったりとした時間だった。信号で止まっては動きだす車の流れを、なんということもなく眺めた。冬も近く街
先日、高校の同窓会があった。 卒業後、20年ぶりの同窓会だった。 集まったのはクラス約50人のうち、20人ちょっと。ちいさなイタリア料理店を借り切っての会だった。みんなの顔がわかるかどうかと心配もしたが、どの顔も「ああ、あいつだ」とすぐにわかった。 みな思ったほど変わってはいなかった。 里見美奈が姿を現したのは、半数ぐらいがそろって、あちこちで「おお、おまえか」「きゃあ、ひさしぶり」とにぎやかになってきたころだった。 何人もが「おっ」と声をあげて、彼女に注目した
「死後の世界って信じる?」 女が訊いた。 「いや、信じないね」男は言った。「きみは信じるの?」 「信じる。というより、あるんだよ。死後の世界って」 「どうしてわかるんだ」 「わたしにはわかるの」 「見たことがあるの?」 「うん。霊とかも見えるよ。ほら、あそこに……」 酒場の片隅、酒瓶のケースなどが積んである暗がりを、女は指さした。 「3人かな、4人かな。よくわからないけど、いる。人間の顔が浮かんでる。見えない?」 「いや、ぼくには見えないね。それは何なの、死んだ人の霊?」
久しぶりの外出だった。原稿書きの仕事が詰まっていて、1か月以上、家に籠りきりだったのだ。映画でも見て、街をぶらついてこようと思って、駅へ向かった。 切符を買おうとしたら、販売機が新しい型に入れ替えられていた。操作法がわからず、何度かやりなおして、ようやく切符を買った。 ホームに立つと、電車接近の表示灯も、新しいものになっていた。世の中の変わり方は早いものだと思いながら、電車に乗った。 電車に乗るのが、変に新鮮な気持ちがした。 ドア脇のスペースに立って、景色を眺めて
夫がもっとやさしくしてくれればいいのにと、以前の真知子はどんなにか願っていたことだろう。いまはまるで反対で、これ以上やさしくするのはやめてほしいと、叫びだしそうな毎日だった。 かつて夫は、家事も育児もてつだうことなく、毎晩酒を飲んで遅くなり、休日でさえほとんど家にいることがなかった。そのくせ、真知子の料理や、子どものしつけや、掃除や洗濯の仕方に、文句ばかりつけていた。手をあげたことも一度や二度ではなかった。 それがある事件を境にがらりと変わった。仕事が終わるとまっすぐ帰
「カレンダーに丸印がついているんだ」 「丸印? 何の話だ」 「日付のところに赤い丸印が書いてある」 「何かの予定とかなのか」 「それがわからない。女房が書いたんだ」 「じゃあ、おまえに何の印かわかるわけはない」 「だから、気持ちがわるいんだ」 「かみさんだって、予定ぐらい書くさ」 「いや、結婚して十年にもなるけど、うちのやつがそんなことをした試しはない」 「だれかと買物にいく約束をしたとか」 「それなら時間とかメモするだろう。そんなのはなくて、ただ丸印だけつけてある。それで、
会社で集団健康診断があった。長谷部は仕事を抜けて指定の病院へ出かけた。病院は人でごった返していたが、なぜか知った顔には会わなかった。 内科検診は廊下までずらりと行列ができていた。検査票を片手に列について、半歩刻みに進みながら、長谷部は自分の健康状態を思った。 酒は飲むし、煙草も吸う。運動はしない。不摂生この上ない生活で、異常が見つかっても何の不思議もなかった。 番が来た。胸をはだけて、スツールにすわった。若い医者が聴診器を当てた。乳のあたり臍のあたりと聴診器が動きまわ
ある晴れた日曜日の午後。 商店街の道路が歩行者天国になって、洋装店のワゴンセールや焼きそばの屋台が並び、地元の買物客でにぎわうなかを、若い夫婦がぶらぶら歩いていた。 夫婦のあとから、白い小さなプードルが、ちょこちょこと忙しく足を動かしてついて歩いていた。かしこい犬らしく、リードもつけず、ときどきあたりのにおいを嗅ぎにいったりしても、はぐれることなくちゃんと飼い主のあとを追っていく。 そのプードルが、ふと立ちどまって、いますれ違った、赤いポロシャツの姿の男を見あげた。な
チャイムの音で、宮川が玄関に出てみると、見知らぬ若い男が立っていた。 「ここが405号室ですか」 と若い男が訊いた。 「そうですが、なにか……?」 宮川は怪訝な顔で訊き返した。 「あ、いや、部屋をまちがえたみたいです」 若い男は言ったが、しかしすぐには立ち去らず、ドアの隙間から、部屋のなかを目で探るようにしながら、妙なことを言った。 「テレビがついていますか」 「ついてますけど」 「お子さんの声も聞こえますね」 「子ども、いますけど、それがなにか?」 「いや、いいんで
古い友人の沢村敬治と久しぶりに会って、二人で酒を飲んでいるときだった。沢村が不意に言いはじめた。 「ちょっとジャンケンをしないか」 「なんだって?」 「ジャンケン」 と沢村は手をグーの形にして構えた。 「ジャンケンポン!」 声をそろえて、手を振った。チョキを出して、私が勝った。 「もう一度」 と沢村が言った。 五回ジャンケンをして、五回連続で私が勝った。沢村はなさけない顔になって、ふうと息を吐いた。 「なんでジャンケンをしたんだ」 私は訊いた。 「悩みを聞いて
夜になると、水音が聞こえる。それが一週間も続いていた。 音は浴室の天井から洩れてくる。上の階の間取りはこの階と同じはずだから、浴室の排水音だろう。 が、風呂にしては長時間すぎる。4時間、5時間、ちょろちょろと絶えることなく続く。排水口に流れこむ水が、空気をまきこんで、ずずずずごごごごと響いたりもする。 そんなに長く風呂を使い続けるだろうか。バスタブや洗濯機がそんなに長く排水を続けるだろうか。気になって、浴室のあちこちに立ち、聞き耳を立てた。 すると、かすかに人の声が