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#53 ホテルにて


 男と目があったような気がした。
 男は交差点の横断歩道にいて、野球帽をまぶかにかぶり、サングラスをかけていた。わたしはそれを見下ろすホテルの7階の1室にいた。
 男がわたしのいるホテルに顔を向けたとき、目があったような気がした。

 用事が早めに終わって、わたしは日のあるうちにこのホテルに入った。窓際で椅子に腰を下ろして、缶ビールを開けた。
 出張のあいまに生じた、わずかだがゆったりとした時間だった。信号で止まっては動きだす車の流れを、なんということもなく眺めた。冬も近く街路樹の葉が散りはじめており、街は寒々と感じられた。
 地上を見下ろすうちに、ひとりの男が交差点の横断歩道を四角く歩きつづけていることに気づいた。
 歩道のうえで暇をもてあますふうにふらふらしていたかと思うと、思い出したように横断歩道を渡って反対側へ行き、結局は交差点を四角く歩きつづけている。

 地上で見ればさほど注意を引く存在ではないだろう。しかし、頭上から見下ろすとき、目的ありげに足早で行き交う通行人のなかで、男はひどく目立った。
 わたしは車の屋根やビルの窓々を眺めては、ときどき男に注意をもどすことをくりかえした。
 その男が、足を止め、こちらを見あげたのである。
 表情まではわからなかったが、どことなく苛立っているように見えた。なぜだかわたしはすこしどぎまぎした。
 上から眺めていたことが、他人の私生活を覗き見していたような気分にさせたのかもしれない。わたしは目をそらし、缶ビールを一口飲んだ。視線をもどすと、男は歩道で信号待ちをしているところだった。

 わたしはふたたび、男の行動を目で追いはじめた。男はそれまでとおなじく横断歩道を四角く歩きつづけた。
 どこかの店の宣伝のビラ撒きとか客引き、あるいは何か違法な品物の取引でもしようとしているのかと思ったが、いつまで経ってもそんなようすは見せなかった。街はしだいに黄昏れはじめていた。
 しばらくして、男がふいに立ちどまった。こんどは周囲のビルを見まわすことなく、まっすぐにわたしのいるホテルの、わたしのいる部屋を見あげた。
 わたしはかすかに身を引いた。サングラスごしの男の視線ははっきりとこちらを向いていた。

 この部屋は地上からどのように見えるだろうか。街が暮れかけ、部屋の明かりがともしてあるから、意外とくっきりとわたしの姿が見えるかもしれない。
 そう思ったとき、男が右手を斜めにさしあげ、わたしに向かって人差し指を突きだした。それから、横断歩道を渡り、ホテルの1階入口へと入っていった。
 ここへ来るつもりなのだろうか。
 わたしはつい落ち着かなくなって、椅子から立ちあがった。
 わたしがあわてる理由はなにもない。にもかかわらず、わたしはうろたえて、部屋のなかを歩きまわり、思いついてドアのチェーンをかけた。
 チェーンをかけること自体、なぜだかひどくうしろめたいことのように思われて鼓動が速くなった。

 やがてドアチャイムが鳴った。わたしはほとんど跳びあがるところだった。ドアスコープを覗くと、野球帽とサングラスが見えた。
「開けろよ」
 と男が言った。わたしは吸い込まれるようにノブをまわした。錠が自動的にはずれ、ドアが開き、しかしチェーンに引っかかってがちゃりと止まった。
「何の御用でしょう」
 と訊いたわたしの声はかすれていた。
 男はドアの隙間からサングラスの顔をぬっと覗かせ、どんっと大きな音をたててドアを蹴った。
「チェーンをはずせ」

 わたしは気おされてチェーンをはずした。いったん閉じたドアを無遠慮に押し開いて男が室内に入ってきた。
「何を見ていたんだよ」
 男が言った。
「何をって、交差点を眺めていただけですよ」
 あとじさりながら、わたしは答えた。
「それだけか」
「それだけですよ」
「ほかに見たものがあるだろう」
「ありませんよ。いったい何を見たって言うんです」
「それをおれの口から言わせる気か」
「いいえ、そんなつもりじゃ……」
「ほんとうに何も見ていないのか」
「いませんよ」
「それなら、いいんだ」男は唇の端にかすかに微笑を浮かべた。「あんた、命が助かったな」
(了)

芸生新聞1996年10月28日号

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