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「SFアドベンチャー」にコラム・ページをつくることになった。ついては、連載でエッセイを書いてもらえないか。そういう依頼が来たのは、1987年後半のことだったろう。 雑誌のなかほどに、コラムばかりを集めたページをつくる。さまざまな人がそれぞれの短い文章を書く。そこに参加してほしいという話だった。 それはにぎやかで、おもしろそうだ。ぜひ書かせてほしいと思った。 けれども、いったいどういうものを書けばいいのか。担当の編集者さんと相談を重ねた。 なかなかいい案が浮かばない。
急な出張を命じられた。妻に告げることを思うと、気が重くなった。申請していた有給休暇とぶつかっていたからだ。 「しょうがないわね」妻は悲しげな顔をした。「あとでまた、休暇をとってね」 もちろん、そのつもりだった。半月遅らせて、あらためて休暇の予定を入れた。けれどもそれもまた、直前になって仕事でつぶれてしまった。 「夏が終わってしまうわ」 妻の眉のあたりに漂う悲しげな表情が、いっそう深くなった。 夏が過ぎ、気がつくともう秋の台風の季節になっていた。 思い返せば、去年も
「大変なの大変なの」妻が大騒ぎしながら玄関から飛びこんできた。「止まらなくなっちゃったの」 「騒々しいな」山村は妻をふりかえった。「なにが止まらなくなったって?」 「自動販売機。ジュースの」 妻に引っぱられ行ってみると、自販機の前の路上に缶ジュースが十数本ならべられていた。 「どんどん出てきちゃうの」 と妻が言った。 言うそばから、ごとんと音をたてて、自販機が缶ジュースを吐き出した。見ていると、十秒に一回ほどの割合で、缶が吐き出されてくる。 「おまえ、なにかしたのか」
税関の係官が私のスーツケースに目を止め、不審げに眉を寄せて言った。 「ちょっと開けてもらえますか」 「いいですよ」 と、私はうなずいた。 南の国への休暇旅行から帰国したところだった. 免税範囲を超える酒も煙草も、違法な土産物も、買ってはいなかった。中身を改められて困ることはない。 が、いざ中を見せようとすると、蓋が開かなかった。鍵を何度も差しなおして試したが、スーツケースは閉じたままだった。 そのうち、中から奇妙な音が聞こえた。紙袋に閉じこめた虫が出口を求めても
近藤さんというのが、その人の名前だった。小学五年になる息子のクラスに、転入してきた男の子の父親だった。 PTAの会合ではじめて顔をあわせたとき、幸子はついじろじろと近藤さんの顔を見つめた。どこかで会ったことがあるような気がしてしかたなかった。 ほどなく、息子の克之が転入生の近藤隆くんと親しくなり、放課後、たがいの家を行き来するようになった。家はごく近所だった。 近藤さんは、隆くんが遅くまで帰らずにいると、ひょっこり迎えにあらわれたり、旅行に行ったからと、わざわざ土産
和彦はテレビのスポーツニュースを見ていた。真奈美はマンガを読んでいた。和彦の見たい番組が終わったら、借りてきたビデオを二人で見るつもりだった。 グラスが空になっているのに気づいて、真奈美は冷蔵庫から缶ビールを出してきた。二人のグラスにビールを注いだ。 それから、コンビニで買ってきたつまみの袋を開いて、白い小さな洋皿に中身をあけた。干した小魚とピーナッツが、皿の上にさらさらと流れ出た。 袋には「ジャコピー」と書かれている。 かりかりに干し固まった小魚は、1センチぐらいの
その本は、書店の新刊本のコーナーにあった。 タイトルは『耳の事件』。 抽象画めいた青っぽい図柄のカバーがかかっていた。タイトルに惹かれて、私はその本を手に取った。 「その本をお買いなさい。一晩、楽しい時が過ごせますよ」 不意に耳元で声がした。 振り返ると、灰色のスーツを着た、サラリーマン風の男が、背を向けて遠ざかっていくところだった。 追いかけて問いただすようなことでもない。その男が囁いたのかどうかも、さだかではなかった。 私は手にした本に目をもどした。タイト
坂本功がはじめてその話を聞いたのは、妻の和子からだった。 「ねえねえ、聞いて」和子は目を輝かせて言った。「イルカがスーパーで買物してたの」 「だれ? タレント?」 功は訊き返した。芸能人を見かけた話をしているのかと思ったのだ。 「ちがうの」和子は言った。「イルカよ。海にいるイルカ」 「クジラの小さいやつ?」 「そう」 「それが買物を?」 「アジの開きとかイカの刺身とかミネラル・ウォーターとか買ってたの」 「ミネラル、どうするのかな」 「飲むんじゃないかしら」 「ふうん、世
赤い薔薇の花で部屋が埋まっていた。 「まあ、すてき」 勤めから帰った野崎綾香はうっとりしながら、ワンルームマンションの自室に入った。 100本や200本ではなかった。バスケットに盛ったのや、花瓶に活けたのや、箱に入れたのや、箱からあふれでたのや、1000本、2000本という薔薇の花で部屋は足の踏み場もなかった。 綾香はなんだか浮き浮きした気分になって、散った花びらを拾い集めたり、花束のまま投げだしてあるのを花瓶に入れたりした。ありあわせの花瓶ではとても足りなかった。
押入れの片付けをしていて、京子はその置物を見つけた。手に載るほどの大きさで、上等な和紙にくるまれていた。 からみあった木の根のようだったが、自然の根ではなく、人の手で彫られたものだった。多数の蛇のように見えるが、頭や目は見当たらない。黒ずんだ茶色の表面に、鈍く光る艶があった。 「何かしら、これ」 和紙を広げた上に置物を載せて、京子は夫に示した。 居間のソファーでテレビを見ていた夫の修平は、のっそりと身を起こして置物を見た。 「ああ、それか」 「何か謂れでもあるの?」
鳥居をくぐり、参道を歩いて行きながら、広志は昔のことを思い出していた。優美といっしょにこの神社に来たことがある。 大学受験の年だった。元日の昼下がり、優美が初詣に行こうと誘いに来て、しぶしぶ腰を上げた。 優美とは幼なじみだった。家が近所で中学校まで同じ学校に通っていた。 喧嘩をしたり仲直りをしたりを繰り返していた。男っぽいさばさばした性格の優美は、怒るとすぐ絶交を宣言したが、翌日にはけろりとして謝りに来た。 新しい年に向けて、広志は甘い初恋の夢想を抱いていた。初詣
妙に引っ越しが多かった。1週間のうちに2度も3度も、マンションの入口にトラックが横付けされているのを見かけた。 「毎日のように引っ越しがあるな」北川清二は妻に言った。「どうなっているんだ」 「シーズンなんじゃないの」 妻の佐江子は気にする風もなく答えた。 たしかに年度の変わり目に当たっていた。引っ越しが多くても不思議ではなかった。 北川の住むマンションは12階建てで、各階10部屋以上、全部で150世帯超。そんな規模だったから、たまたま何軒もの引っ越しが重なっても、さ
夕方になると、隣家からピアノの音が聞こえてくる。子どもむけの練習曲だった。かならずおなじ箇所でつっかえる。小学3年生になるレミちゃんのおさらいの時間だった。 矢島洋子はそれを聞きながら、夕食の支度にとりかかる。それが毎日のことだった。 そのピアノが、あるときを境に、聞こえなくなった。レミちゃんが亡くなったのである。下校途中の交通事故だった。 通夜に行き、帰らぬ娘の写真の前で橋本夫妻がうつむいているのを見て、洋子ももらい泣きをした。 事故からひと月ほどしたある日の夕方
おかしいな、こんなはずはないが……。 亡くなる前の父がそんなことをつぶやいて、病室で首を傾げているのを、私は何度か見かけた。何の話か見当はついたが、父の思いは現実のものとはならず、結局そのまま逝ってしまった。 父のその思いに感情移入するところのあった私は、ひどく残念な気持ちがした。 父が言っていたのは、鏡子さんのことだろう。 通夜の参列者が帰った公営の斎場で、棺を前に私は思いを巡らせた。 鏡子さんは父の初恋の人である。私は会ったことはない。父は折に触れ、楽しげに