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#55 バス停にて

 私は毎朝おなじ時刻にそのバス停に行った。
 乗客の列に並んでいると、いつもおなじ男がバス停の横を通りすぎていくのを見る。
 会社員風だけれども会社員にしてはお洒落な茶色の服を着用し、口髭を蓄えた五十がらみの男だった。頑固そうな太い眉ととぼけた感じの口元が、アンバランスな印象の顔をしていた。背筋を正して気取って歩いているのに、ちょっと蟹股なのもおかしげだった。

 その会社員氏のたどるコースが奇妙なものであることに、いつのころからか私は気づいていた。
 バスは往復2車線の通りを走っていて、両側の歩道沿いは商店街になっている。商店街の果てたところに交差点があり、地下鉄の入口がある。私の待つバス停は交差点の手前にある。
 会社員氏はバス停を通りすぎて交差点まで歩き、そこでバス通りを渡って地下鉄駅へ入るのだが、最初に彼がバス通りへ姿を現すのは、その地下鉄駅の入口のある側の横道からなのだ。
 つまり、彼は、バス通りを一度も渡らずに地下鉄駅へ行けるにもかかわらず、まず通りを渡り、バス停を過ぎてから再度渡って元来た側に戻るという、コの字型の遠回りなコースをたどって地下鉄に乗っているのだった。
 どういうコースで道を歩こうと人の勝手だけれども、朝の忙しい時間に、それも毎日かならず迂回コースを彼がたどっていることに気づいてしまうと、なんだか気になって、きょうも彼は迂回コースを行くのだろうかと、つい注意して見るようになった。

 見ていると、彼はバス停の手前まで来て一瞬歩度を緩めるときがあった。片眉を上げ、なぜだかちょっと悲しげな表情で、忘れ物をでも思い出したような表情をするのだが、しかし引き返すでも立ちどまるでもなく、そのままバス停を通りすぎ、地下鉄駅へと消えていく。
 彼がこちら側に渡ってくる理由は何だろうと、私はあれこれ考えた。
 朝、バス通りのこちら側の歩道には日が差し、向こう側の歩道は日陰になる。会社員氏は日の当たる場所を歩きたくてわざわざ渡ってくるのかなどと考えてみた。
 けれども、彼は曇りの日でも雨の日でもやはりこちら側を歩いて地下鉄駅に向かう。
 こちら側から見える景色が好きなのだろうかなどとも考えた。
 たとえば向こう側の商店の2階部分は、向こう側の歩道を歩いたのでは見えない。そこに美女が住む部屋でもあって、それを見物したいというのであれば、こちら側に渡ってくる理由になる。
 けれども、会社員氏に商店の2階を眺めるようすはなかったし、美女のいる部屋も見当たらなかった。

 理由のわからないまま、いつも会社員氏を眺めているうちに、彼の方もどうやら見られていることに気づいたようだった。
 ある日、彼が横道から姿を現したところで目が合い、バス通りを渡ってこちら側の歩道をバス停へ近づいてくる途中でも目が合った。彼はなんだかぎくりとして、まずいところを見られたとでもいうような表情で通り過ぎ、交差点のところで元の側へ渡る途中でこちらを振り返って、非常にいやな顔をして、地下鉄駅へと消えていった。
 そのときを境に、彼はこちら側へ渡ってこなくなった。私のいるのとは反対側の歩道を、素知らぬ顔でまっすぐに地下鉄駅へ歩いていく。そのようすは、もうそちら側へは渡らないよ、残念だったねとでも言っているように見えた。
 何度かは、横道から姿を現わしてすぐバス通りを渡ろうとして横断歩道に足を踏み出し、あわてたように引き返すのを見た。意地でも渡るものかと頑張っているみたいだった。

 そんなことが1月ほど続いただろうか、私はある日、ついに会社員氏の奇妙な行動の理由を理解することになった。
 彼は、私が彼の行動に気づいて興味を持って観察するようになる以前に、コの字型の遠回りをしなければならない必要があって遠回りをしていたのだったが、あるときから習慣を変えたせいで遠回りの理由がなくなり、それでもそれまでの癖でつい毎朝遠回りをしてしまい、それを私に見られて、恥ずかしいやら苛々するやらしていたのだ。
 理由がなくなったのに、それまでの癖でついいらぬ行動をしてしまうことは、人間にはときどきあるものだと思って、私は微笑した。

 遠回りの理由がわかったのは、会社員氏がかつての習慣を復活させたからだった。
 その日、脇道から姿を現わした会社員氏は、口に煙草をくわえていて、数歩ごとに煙を吹きながら横断歩道をこちらへ渡ってきた。そうして、私がいるバス停のところまで来ると、ちょうど火を消す頃合いの長さになった煙草を、バス停に備え付けの灰皿で揉み消した。
 会社員氏は煙草を揉み消しながら私と目を合わせてにっと笑い、それからなんだか満足げなようすで地下鉄へと歩き去った。
(了)

芸生新聞1999年4月5日号

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