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#49 やさしすぎて

 夫がもっとやさしくしてくれればいいのにと、以前の真知子はどんなにか願っていたことだろう。いまはまるで反対で、これ以上やさしくするのはやめてほしいと、叫びだしそうな毎日だった。
 かつて夫は、家事も育児もてつだうことなく、毎晩酒を飲んで遅くなり、休日でさえほとんど家にいることがなかった。そのくせ、真知子の料理や、子どものしつけや、掃除や洗濯の仕方に、文句ばかりつけていた。手をあげたことも一度や二度ではなかった。
 それがある事件を境にがらりと変わった。仕事が終わるとまっすぐ帰宅し、子どもの面倒を見、皿洗いやアイロンかけをてつだう。真知子が疲れたり苛立ったりしていないかと終始気づかい、風呂で真知子の背中を流すことさえするのだった。

 事件は夫の一言からはじまった。
「おまえ、ゆうべ夜中にどこへ行っていたんだ」
 ある朝、夫が問いただすように言ったのである。
「え、夜中に……? どういう意味です?」
 真知子は訊き返した。まったく身に覚えのないことで、夫が何のことを言っているのか、理解できなかった。
「急にごそごそ起き出して、外へ出ていったじゃないか。おれはまだ寝つけないでいたんだよ」
「わたしが? そんなこと、するはずがないわ」
「するはずがなくても、現にしたんだ。とぼけるつもりなら、もういい」
 夫はそれで話を打ち切りにし、不快そうな顔で仕事にでかけていった。
 真知子は、夜のあいだのことを思い出してみようとしたが、トイレにさえ起きた記憶がなかった。

 けれども、それから何週間かのあいだに、いくつか奇妙なできごとが起こった。
 朝、真知子が起きると、パジャマのすそに泥のようなものが付着していたことがあった。別のときには、すねと太腿に打ち身とおぼしい青黒い痣ができていて、しかしどう思いだしてみても、どこかに打ちつけたり転んだりした記憶はなかった。パジャマの両の袖口がぐっしょり濡れていたり、てのひらに赤錆のようなものがこびりついていたりしたこともあった。
 深夜、自分の知らない自分が家の外へ出ていっている。真知子はそう考えざるをえなくなった。しかし、自分がなぜそんなことをするのか、外で何をしているのか、皆目見当がつかない。

 困惑と不安の果てに、真知子はそのことを夫に相談した。
「いまごろ何を言っているんだ」夫は不審な顔で言った。「おまえがとぼけるから、放っておけば、このごろじゃ毎日のように夜遊びに出るようになって。声をかけても、強引に外へ出ていく。つけあがるのもいいかげんにしろよ」
「わたし、ほんとうにそんなに外へ出ていっているんですか」
「まだ、とぼけるつもりか。このあいだなんか、おれが深夜に帰ったら、寝床はもぬけのから。そのあとで、おまえがパジャマ姿で帰ってきて、知らぬふりで寝てしまった」
「ほんとに? でも、記憶がないんです」
 話せば話すほど、夫は不機嫌になった。

 それをどうにか納得させて、真知子は自分が外でなにをしているのかを知るために、夫に後をつけてくれるように頼みこんだ。
 翌朝、顔をあわせると、夫は落ち着かなげに視線を宙に漂わせ、妻ではない見知らぬものを観察する目つきで、ちらちらと真知子の顔を盗み見た。
「後をつけてくれました?」真知子はおそるおそる訊いた。「わたし、外で何をやっていたんです?」
「…………」夫は視線をさまよわせた。「見たよ、おまえが外で何をやっているか」
「何をやっていたんです」
「それは……」夫は逡巡した。「言いたくない」

 それからである、真知子に対する夫の態度が変わったのは。真知子もまた、自分が夜の外出をしなくなったらしいことを知った。
 そのこと自体は、望ましい結果だった。けれども真知子にとって気がかりなことに、夫のやさしさは異様ともいえるほどのものであり、しかも、やさしさのむこうに、真知子に対する恐怖や畏れの感情が透けて見えることが、たびたびある。
 夫のやさしさが増せば増すほど、真知子は自分自身が怖くなっていく。何度問うてみても、夫は自分の見たものを話そうとはしない。
 ただいっそうやさしくなるばかり。
(了)

芸生新聞1996年7月29日号

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