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#45 405号室
チャイムの音で、宮川が玄関に出てみると、見知らぬ若い男が立っていた。
「ここが405号室ですか」
と若い男が訊いた。
「そうですが、なにか……?」
宮川は怪訝な顔で訊き返した。
「あ、いや、部屋をまちがえたみたいです」
若い男は言ったが、しかしすぐには立ち去らず、ドアの隙間から、部屋のなかを目で探るようにしながら、妙なことを言った。
「テレビがついていますか」
「ついてますけど」
「お子さんの声も聞こえますね」
「子ども、いますけど、それがなにか?」
「いや、いいんです。失礼します」
なお部屋の奥をうかがいながら、奇妙な訪問者はようやく帰っていった。
宮川がリビングにもどると、妻の聡美が床を雑巾で拭いていた。3歳になる息子がジュースをこぼしたらしい。息子は何食わぬ顔で、テーブルの上のヨーグルトに手を伸ばし、指をつっこんでいた。あらあらだめよ、と聡美が手をつかみ、ティッシュでぬぐった。
そのとき、ベビーベッドのなかで、赤ん坊が泣きはじめた。
「大変だな、主婦というのも」
宮川は言い、ソファーで新聞を広げた。
「役目だから、しようがないけど」
聡美は赤ん坊のおむつを替えながら言い、替え終わると風呂場へ行き、洗濯物を抱えてもどってきて、ベランダで干しはじめた。
「たまにとれた休みだ。食事にでもいくか」
宮川は声をかけた。
「むりよ。子どもはどうするの」
ベランダから答えが返ってきた。
そのとき、また玄関チャイムが鳴った。宮川が見に行くと、こんどは中年の女性だった。
「こちらが405号室でしょうか。桜が丘マンションの」
「そうですが」
「ご主人、きょうはお休み? 何か変わったことはありませんか」
「どういう意味です?」
そんな問答をしながら、彼女もしきりに部屋のなかを覗こうとした。
「部屋のなかが何か気になりますか」
宮川が訊くと、
「あ、いいえ、そういうわけじゃ……」
言葉を濁して彼女は帰っていった。
リビングへもどると、聡美はキッチンに立って、朝食の食器を洗いはじめていた。
その背中へ、宮川は言った。
「平日は毎日こんなぐあいなのか。そこらへ遊びにでる暇もないな」
「ないわね。主婦業って忙しいのよ。まして子どもがふたりもいたんじゃ」
「おまえはよくやってくれているよ。会社の同僚からも、うらやましがられる」
「そう?」
「結婚のときの約束通り、専業主婦でやってくれてて、家のことはすべて任せていられる。おれは何の心配もしなくていい。助かるよ。最近は家事や育児を夫に分担しろなんて、けしからんことを言い出す女が多いらしいが、おまえはちがう。最高の奥さんだ」
「それがあなたの望みだものね」
また、玄関にだれか来た。宮川が出てみると、警官が立っていた。
「こちらが405号室ですか」
「そうですが」
駅前の交番の者ですと自己紹介をしながら、警官もまた部屋のなかを覗こうとした。
「何なんです?」宮川は訊いた。「さっきから何人もがうちを覗きにくるんだけど」
「何も変わったことはないようですね」
「ないですよ」
「申し訳ありません。お騒がせして。理由を知りたいですか」
警官は、近くの私鉄駅まで、宮川を連れていった。改札口のわきに、伝言板があり、そこにこんなことが書かれていた。
<助けて。監禁されてるの。桜が丘公園マンション405号室>
宮川は肩をすくめて、警官に言った。
「いったい監禁されてる人間が、こんなことを書きに、ここまで来られますか」
「それはそうですね」
「わたしがだれかを監禁していると、疑われたわけですか」
「いや、市民から訴えがあったので、確かめに行っただけですよ」
警官は笑い、その伝言を消し布で消した。
宮川は憤慨しながら家に帰り、妻に伝言板の件を報告した。
「まったく、しようもない嘘を書くやつがいるもんだよ」
すると、妻が言った。
「その伝言、わたしが書いたの。まったくの嘘ってわけでもないわ」
(了)
芸生新聞1999年5月17日号
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