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#43 水音

 夜になると、水音が聞こえる。それが一週間も続いていた。
 音は浴室の天井から洩れてくる。上の階の間取りはこの階と同じはずだから、浴室の排水音だろう。
 が、風呂にしては長時間すぎる。4時間、5時間、ちょろちょろと絶えることなく続く。排水口に流れこむ水が、空気をまきこんで、ずずずずごごごごと響いたりもする。
 そんなに長く風呂を使い続けるだろうか。バスタブや洗濯機がそんなに長く排水を続けるだろうか。気になって、浴室のあちこちに立ち、聞き耳を立てた。
 すると、かすかに人の声が聞こえることがあった。重いものを動かすときに、思わず短く洩れる声のように聞こえた。不自然な姿勢で力をこめて、バスタブやタイルを磨けば、そんな声が洩れるかもしれない。
 しかし、毎日何時間も浴室の掃除をするだろうか。

 ある夜、何か金属製のものが、浴室の床に落ちたような音が聞こえた。
 私の想像は突然、血の色に染め上げられた。
 包丁とか、それでなければ、鋸とかではあるまいか。それが切断しているものは、人間の腕とか足とかではあるまいか。
 音を立てて排水口に流れこんでいるのは、シャワーで流され、浴室の床いっぱいに広がった……血。
 そんな想像を掻きたてられた日の翌日、我が家からほんの十分程の公園で、切断された人間の足が発見されたと、ニュースが流れた。足は若い女性のもので、新聞紙にくるみ、ビニール製のゴミ袋に入れて、屑籠に捨てられていたという。
 そのニュースを、夜のテレビで見ながら、階上の浴室に流れる赤い水を脳裡に思い浮かべていたとき、玄関のチャイムが鳴った。
 出てみると、若い男が立っていた。

「水音、気になりますか」
 と、彼は言った。痩せぎすで、不健康な感じのする男だった。
「なんだって?」
「あ、すいません、突然で。上の階のものなんですけど」
「上の階の……?」
「たくさん水を使うものですから。ご迷惑をかけているかもしれないと思って」
「ああ、すこしね」そう答えた私を、彼は表情の乏しい目で、探るように覗きこんだ。私はあわてて付け加えた。「だけど、共同住宅では、しようがないことですよ」
「申しわけない。でも、もうすぐ全部終わりますから」
「終わる……?」
「ええ、大根を洗っているんです」
「え……?」
「くにの母が、よせと言うのに、いっぱい送ってよこしたもんですから」彼は顔をしかめて見せた。「泥を洗い流して、葉っぱを切り落とすだけでも一仕事で……」
「ははあ、泥を……」
「もう大変なんですよ。毎晩、手も顔も真っ茶色の泥だらけになって、なにしろ何十本もだから、簡単には終わらない。持ってた包丁じゃ間に合わなくて、切れ味のいい大きな包丁をわざわざ買ってきちゃいましたよ……」
 その作業の大変さをくどくどと述べたてて、彼は帰っていった。

 数日後、こんどは近くの駅のコインロッカーから、若い女性の腕が見つかった。それから連日、新聞テレビは、その事件で大騒ぎをした。
 しかし、それきり、体の他の部分は発見されなかった。被害者の身元さえわからないまま、日が過ぎた。事件はいっこうに解決の兆しが見えない。
 気がつくと、上の階の水音が、ぱったり聞こえなくなっていた。

 ある夜遅く、玄関のチャイムが鳴った。階上の男だった。なぜだか、むやみにうれしそうな顔をしていた。
「おかげさまで、すっかり終わりました」
 と、彼は言った。
 それから、迷惑を掛けたお詫びの気持ちだと、ビニール袋をひとつ差し出した。透明な袋のなかに、新聞紙にくるまれたものが入っていた。
 思わず身を引くと、彼はにっと笑い、
「妙なものじゃありませんよ」
 ビニール袋を押しつけて、帰っていった。
 包みを開いてみると、大根の漬物が出てきた。
 丸ごと一本の大根が、薄く漬物色に染まって、ごろりと横たわっていた。皮に皺が寄って縮み、持てばぐったりと持ち重りのするのを、まな板に載せ、包丁で二つに切った。それから厚めの輪切りにして、ひとつつまんだ。おいしく漬かっていた。
 口を動かしながら、大根を包んでいた新聞紙を眺めた。端の方に茶色の汚れが付着している。泥なのだか何なのだか、いくら見てもわからない。
(了)

芸生新聞1998年4月27日号

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