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#47 検査

 会社で集団健康診断があった。長谷部は仕事を抜けて指定の病院へ出かけた。病院は人でごった返していたが、なぜか知った顔には会わなかった。
 内科検診は廊下までずらりと行列ができていた。検査票を片手に列について、半歩刻みに進みながら、長谷部は自分の健康状態を思った。
 酒は飲むし、煙草も吸う。運動はしない。不摂生この上ない生活で、異常が見つかっても何の不思議もなかった。
 番が来た。胸をはだけて、スツールにすわった。若い医者が聴診器を当てた。乳のあたり臍のあたりと聴診器が動きまわった。
 だいたい見終わったかと思われたとき、不意に医者が声を洩らした。
「えっ……?」
 医者は眉間に皺を寄せ、首を傾げて、内臓の音に耳を澄ます目つきになった。

「えっ……?」思わず長谷部も言った。「どうかしましたか」
「あ、いや……」
 医者は手を上げて長谷部の言葉を制し、聴診器をあちこち動かして音を聞いた。長谷部は不安な気持ちになった。
「何なんでしょうか」
「いや、失礼、ちょっと驚いたものですから」医者は検査票を手に取って見た。「長谷部さん、ですか。45歳……」
 医者は思案顔を見せ、それから検査票に英文ですばやく何か書き込むと、看護師を呼び、小声で何か囁いた。看護師はちらと長谷部の方を見た。
「あの、何か問題でも……?」
 長谷部が訊こうとすると、医者は妙に優しい笑みを浮かべ、猫なで声で言った。
「ちょっと検査をしておきましょう。なに、たいした検査じゃありません」
 看護師がこちらへと長谷部を案内して部屋を出た。行列の人々がみな不審そうに長谷部を見送った。

 廊下伝いに別室へ連れていかれ、そこでしばらく待たされた。真っ白な壁に囲まれて、ぽつんと椅子が一脚あるだけの部屋で、長谷部のほかにはだれもいない。
 看護師がもどってきて、注射器で腕から血を採った。
「だいじょうぶ。心配しなくていいですよ」
 ベテランの看護師は、温かみがあるが事務的な口調でそう言い、一応、尿も検査しますからと、紙コップを渡した。
 トイレで尿を採ってもどると、部屋にはだれもいなかった。自分の尿の入った紙コップを持って、長谷部はぼうっと部屋のまんなかに立っていた。
 やがて先刻とは違う若い看護師が顔を見せ、はい、ご苦労様と紙コップを受けとった。
 そのまま部屋を出ていこうとする看護師を呼びとめて、この検査は何の検査なのかと長谷部は訊いた。看護師はは元気よく答えた。
「結果は郵送になります。ほかの健診結果とは別便で1週間ぐらいで着くと思います」

 1週間は長かった。
 長谷部は酒を飲む気にもならず、煙草も控えめになった。なんだか体がだるく、食欲がなかった。夜、寝床に入ると、わけのわからない不安感がむくむくと湧きあがって、よく眠れなかった。
 ちょうど1週間目に病院の名を記した封書が届いた。封を切らないまま、こっそり隠すようにして会社に持っていった。デスクの引出しのいちばん手前のところにしまい、一日中ときどき引出しを引いて眺めては、そのままもとにもどした。
 夕刻になって、ようやく封筒を手に取った。それを持ってトイレの個室に入った。どきどきしながら封を破った。一枚の紙切れが出てきた。

 トイレからもどると、長谷部は家へ電話を入れた。今夜は早く帰るから、ご馳走を用意するようにと妻に言った。
 妻は、長谷部の好物のてんぷらや刺身で盛大に食卓を飾って待っていた。長谷部はビールを開け、妻のグラスにも泡のあふれるほどに注いだ。
「どうしたの。会社で何かいいことでもあったの」
 妻が訊いた。長谷部はただにやにやと笑った。
「変な人。ひとりでにやにやして」
 妻はあきれ顔をした。

 長谷部は例の封書を取りだし、なかの紙を引っぱりだした。広げてみると、ワープロの文字で「検査の結果は」とあり、その次にあらかじめ空けられたスペースがあった。そこに手書き文字で「陰性」と書いてあった。
 もう何度となく見直したその文字を見て、長谷部はまた笑みを浮かべた。何度見てもほっとする文字だった。
 ただ、何が陰性なのかは、ついにわからないままだった。
(了)

芸生新聞1997年7月28日号

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