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#54 窓

 会社帰りの電車のなかで、森田裕二は辞めた同僚のことを思い出していた。内山勉という名の、目立たない社員だった。
「窓を開けるのが怖いんだ」
 退社するすこしまえ、内山はしきりにそんなことを言っていた。
「窓って、自分の部屋のか」
 森田は訊いたことがある。
「そう。南側の窓」
「南側? おまえのアパート、どの部屋の窓も西向きじゃないか」
「いや、南側にあるんだ、窓が」
「おまえ、最近、引っ越した?」
「いや」
「それなら、おれが遊びにいったことのある、あのアパートだよな。あそこは南側に窓なんかないだろう」
「それがあるんだ」
「おれの記憶違いかな。それで、開けるのが怖いって、どういうことなんだ」
「うまく説明できないけど、開けてみたいような、開けたくないような」

 要領を得ない話だった。南側には窓がないはずだったし、それを開けるのが怖いという意味もよくわからない。
 しばらくして、内山がまた、窓のことを口にした。
「じつは、とうとう窓を開けてみたんだ」
「怖いと言っていた窓のことか」
「怖かったんだけどね。怖いもの見たさってあるじゃないか」
「開けてみたら、どうだったんだ」
「廊下があった」
「廊下?」
「窓の向こうは、ずっと長く奥へと続いている廊下。左右にドアが並んでいて、空気にかすんで見えなくなる遠いところまで、まっすぐに延びている。その果てのあたりに、豆粒みたいな人影が見えた」
「どういうことだ、それ。何を見たんだ」
「わからない。怖くなって、すぐに窓を閉めたから。でも、豆粒みたいな人影は、ぼくを呼んでいるように見えた」
 おかしくなってしまったのかと、森田はまじまじと内山の顔を見た。あまり仕事ができず、会社でも孤立しがちな同僚を、森田はすこし気の毒に思った。

 内山が失踪したのは、それからほどなくのことだった。
 ある日、会社を無断欠勤し、そのまま何日も出勤しなかった。電話連絡もとれなかった。会社は時期を見て、退社扱いにするという対応のようだった。
 森田は内山のアパートを訪ねた。大家に訳を話し、内山の部屋の鍵を開けてもらった。
 テーブルの上に、かじりかけのトーストと飲みかけのコーヒーがあった。朝食の途中で急に思い立って、どこかへ旅立ったかのようだった。
 窓は森田の記憶どおり西向きで、南側は壁があるだけだった。壁に変わったところは見当たらない。

 内山の消息を聞くことは、その後絶えてなかった。
 ――どこへ行ってしまったのだろう。
 電車に揺られながら、森田はずっとそのことを考えていた。内山は長く続く廊下をもう一度見たのだろうか。
 ぼんやりと考えつづけながら、降車駅で電車を降りた。駅から自宅への途中にある定食屋で夕食を食べた。
 週に2、3回はそこで食事をしていた。会社に入って以来、10年近くそれが変わっていない。仕事は好きだったが、10年も同じ仕事をしていると、疲れのようなものが溜まってくる。
 ときには風通しのいい窓を開けてみたくなるな、と森田は思った。

 定食屋を出て、10分ほど歩くと、自宅アパートが見えてきた。2階に3つの部屋の窓が並び、そのまんなかが森田の部屋だった。裏手の外階段を上り、部屋に入った。
 目を閉じて明かりをともした。それから、ゆっくりと目を開いた。
 右手の壁に窓があった。
 本来の窓は正面にある。右手の壁の向こうは隣室のはずだった。
 その窓は、数日前からそこにあった。板壁にサッシ枠がはまりこんでいる。ガラスは曇りガラスで向こうは見えない。
 サッシ枠を、森田は手で撫でた。窓の向こう側からかすかに隙間風が入ってきているのが指先に感じられた。森田の手は枠をたどり、鍵にかかった。鍵がはずされた。
 手をかけて引きさえすれば、窓は開く。
 が、森田はそうしなかった。
 冷蔵庫から缶ビールを出し、栓を開けながら窓を眺めた。
 窓は幻とは思えなかった。
 きょうは勇気がない、と森田は思った。しかし明日は、ひょいとなにげなく、窓を開けてしまうかもしれない……。
(了)

芸生新聞1996年12月16日号

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