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#50 電車の挨拶

 久しぶりの外出だった。原稿書きの仕事が詰まっていて、1か月以上、家に籠りきりだったのだ。映画でも見て、街をぶらついてこようと思って、駅へ向かった。
 切符を買おうとしたら、販売機が新しい型に入れ替えられていた。操作法がわからず、何度かやりなおして、ようやく切符を買った。
 ホームに立つと、電車接近の表示灯も、新しいものになっていた。世の中の変わり方は早いものだと思いながら、電車に乗った。
 電車に乗るのが、変に新鮮な気持ちがした。

 ドア脇のスペースに立って、景色を眺めているうちに、電車はつぎの駅に着いた。
 ドアが開き、制服姿の女子高生が乗ってきた。
 足を電車に乗せながら、
「こんにちは」
 こちらを見て微笑し、頭を下げた。
 私はとまどって、彼女の顔を見返した。知り合いでもなく、挨拶される覚えもない。先生と間違われたのかな、などと考えた。
 女子高生は電車の奥へ進み、吊革につかまったが、そのときにも、前の座席の女性と、隣の吊革の男性に声をかけていた。
「こんにちは」
 座席の女性も吊革の男性もにこやかに、
「こんにちは」
 と挨拶を返した。

 つぎの駅に電車が止まると、子どもを連れたお母さんと、大学生風の若者が乗ってきた。
「こんにちは」
 お母さんが私にむかって言い、手を引かれた子どももそれにならって、
「こんにちは」
 大きな声で言った。
 それにつづいて電車に乗りこみながら、大学生風の若者も、
「こんにちは」
 と私に会釈し、その声に振り返ったお母さんと子どもと、それぞれおなじ言葉を交わした。

 その後の駅でも、電車が止まるたびに、乗客はみな挨拶をしながら乗ってきた。降りる客は「さようなら」とか「ではまた」とか「おさきに」とか言いながら降りていく。
 私は目を白黒させるばかりだった。都会のまんなかで電車に乗り降りするのに、見知らぬ人同士で「こんにちは」を言いあうなんて、見たことも聞いたこともない。
 家から出ずにいるあいだに、そういう習慣が定着したのだろうか。
 観察していると、その挨拶のせいでなんとなく車内になごんだ空気が流れているように感じられて、悪くない習慣だなと思われた。
 けれども慣れないことはなかなかできないもので、私は何度声をかけられても、黙礼するのが精いっぱいで、声に出して挨拶を返すことがとうとうできなかった。車内の乗客から白い目で見られているような気がして、だんだん居心地が悪くなってきた。
 その日はとうとう、その新しい習慣になじめないまま、家に帰った。悔しいような、恥ずかしいような気持ちがした。つぎに電車に乗るときには、がんばって挨拶のできるようにしようと思った。

 また量の多い原稿書きの仕事が入って、半月ほど家に籠った。それが一段落してから、外出の機会を得た。
 そうそう、電車では「こんにちは」と言わなければね、と思いながら駅に向かい、ホームで電車を待った。口のなかで「こんにちは」と何度か練習してみた。うまく言うことができそうだった。
 電車が来て止まり、ドアが開いた。ドア脇のスペースに、営業マン風の男が立っていた。わたしは乗りこみながら、
「こんにちは」
 元気に挨拶した。
 すると、営業マン風の男はぎょっとしたように私を見た。立って歩く豚でも見たような目つきだった。気がつくと、他の乗客たちも白い目で私を見ていた。
 しまった、また習慣が変わっていたのか。私は背中に冷や汗の流れだすのを感じた。

 見ていると、乗ってくる客も降りていく客も、だれも挨拶なんかしていない。私は穴があったら入りたい気持ちで、ドアに張りつくようにして身を縮め、他の客に背を向けてずっと外の景色を見つめつづけた。
 どうしちゃったのだろう、いい習慣だと思ったのにと、ちょっと悲しい気持ちがした。
 しばらくして車内放送が流れた。
「ご乗車ありがとうございます。車内でのご挨拶は他のお客様のご迷惑になりますので、ご遠慮くださるよう、お願い申しあげます」
(了)

芸生新聞1999年4月26日号

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