見出し画像

#48 丸印

「カレンダーに丸印がついているんだ」
「丸印? 何の話だ」
「日付のところに赤い丸印が書いてある」
「何かの予定とかなのか」
「それがわからない。女房が書いたんだ」
「じゃあ、おまえに何の印かわかるわけはない」
「だから、気持ちがわるいんだ」
「かみさんだって、予定ぐらい書くさ」
「いや、結婚して十年にもなるけど、うちのやつがそんなことをした試しはない」
「だれかと買物にいく約束をしたとか」
「それなら時間とかメモするだろう。そんなのはなくて、ただ丸印だけつけてある。それで、かえって気になる」
「かみさんに訊けばいいじゃないか」
「訊いたんだ。そうしたら、内緒よ、なんて、うすら笑いを浮かべやがった」
「亭主以外のだれかさんとデートの日か」
「そんな印を居間のカレンダーにつけるか。まあ、おれも女房の相手なんて、とんとしてやっていないから、わからないけどな」
「平日は仕事で遅いし、休日はゴルフか釣り、それでなければ競馬か。夜の生活は?」
「ご無沙汰だなあ。だから、浮気はあるかもしれないけど、丸印とは結びつかない」
「たしかに、まあ、浮気の予定を居間のカレンダーには書かないな」

「おまけに、ここのところ、女房のようすがなんとなくおかしいんだ」
「おかしいって?」
「楽しそうに鼻歌を歌って家事をしていたかと思うと、急に不機嫌になって返事ひとつしなくなる。何も言わずにぷいと家を出ていったかと思うと、妙にご機嫌で帰ってくる」
「気分が不安定なんだな」
「何かたくらんでいるんじゃないかと思えてしかたない」
「たくらんでいる?」
「何か重大なことを決行しようとしているとき、人間そんなふうになることがあるじゃないか。高揚して陽気になって、しかし、ことの重大さに思い至ると、重苦しく不機嫌になる」
「重大なことって、たとえば何だよ」
「たとえば、亭主を亡きものにしようとするとか」
「ばかな」
「ぞっとするものを感じたことがあるんだ。丸印のことを訊いたら、それは重要な日なの、と女房が真顔で答えたときだ。あなたにとっても重要な日なのよ、と言って、ねちっこい妙な笑い方をしやがった」
「待てよ、それこそ変だ。殺人計画の日に丸印なんかつけるわけがない」
「いや、うっすらとおれにそのことを悟らせて、じわじわと不安に陥れて、楽しんでやがるんだ、きっと」
「本気で言ってるのか、それ」
「本気だよ。だから、こうやって、きょう、おまえに酒をつきあわせて、家に帰るのを遅らせている。じつは、きょうが丸印の日なんだ」
「きょう……?」

「うん。だから、日付が変わって、丸印の日が過ぎるのを待っている。……どうかな、そろそろ12時を過ぎたかな」
「そうだな。そろそろ過ぎた」
「じゃあ、ぼちぼち腰をあげるか。勘定をしてもらおう。明けて27日か。なんだかほっとした」
「ほっとできるのか」
「ああ、2月26日、この日さえ過ぎれば……あれ?」
「どうした」
「2月26日だよ。いま思いだした。心配することはなかったんだ」
「何を思いだしたんだ」
「いや、お恥ずかしい。まいったな。丸印は結婚記念日だったんだよ」
「なんだって」
「てっきり何かもっと重大な意味だと思っちゃったから、まるで思いつかなかった」
「やれやれ、ばかばかしい。それなら、早く帰ってやればよかったのに」
「いまから飛んで帰るよ。ちゃんと覚えていたことを、女房に言ってやらなきゃ。忘れてたなんて思われたら、どうなることやら」
「忘れていたくせに」
「女房に試されたな。いや、面目ない。ともかく大急ぎで女房の顔を見に帰る」

 夫の帰らない部屋で先刻からじっと時計を見つめていた妻が、あきらめたように首を振って立ちあがり、すでに準備してあった大きな荷物を抱え、ひっそりと部屋を出ていった。だれもいなくなった部屋のテーブルの上に、判を押した書類が一枚。
(了)

芸生新聞1997年2月10日号

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?