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#51 階段の下の扉

「死後の世界って信じる?」
 女が訊いた。
「いや、信じないね」男は言った。「きみは信じるの?」
「信じる。というより、あるんだよ。死後の世界って」
「どうしてわかるんだ」
「わたしにはわかるの」
「見たことがあるの?」
「うん。霊とかも見えるよ。ほら、あそこに……」
 酒場の片隅、酒瓶のケースなどが積んである暗がりを、女は指さした。
「3人かな、4人かな。よくわからないけど、いる。人間の顔が浮かんでる。見えない?」
「いや、ぼくには見えないね。それは何なの、死んだ人の霊?」
「そう。このお店にはたいていいつもいる」

「霊感があるんだね。金縛りとか、あったことある?」
「夢とかは見るよ」
「夢?」
「暗い階段があって、そこを下りていく夢。急な階段で、1段1段がとても高くて、1段下りるたびに体がどこか深いところへ沈んでいくみたいなの。右側の壁だけに木の手すりがあって、その手すりはつるつるに磨きあげられている」
「細かいところまで覚えているんだね」
「うん、夢だから。階段を下り切ったところに、扉がある。焦げ茶色をした木製の重そうな扉で、ノブのわきにニスの剥げたところがある。階段を下りながら、その扉を開いちゃいけないって、わたしは思っているの。開いたら2度と帰って来られなくなる扉だから」
「なんだか怖い話だね」
「ああいうのは絶対に扉を開けちゃいけないの。たとえ夢のなかでも、開けたらほんとうにおしまいだから。お客さんもそんな夢を見たら気をつけてね」

 男が飲んでいる間、その小さな酒場には客が一人も入って来なかった。やがて男は立ちあがり、金を払った。
「また来てくださいね」
 と女は釣りを渡した。
 店を出ると、そこは小さな酒場が軒を連ねる裏路地。
 男は酔った足取りで路地をたどっていき、しばらくして1つの看板の前で足を止めた。もう一軒、寄りたい気分になった。
 店の入口は、道からじかに地下への階段になっていた。
 男は階段を下りはじめた。
 階段は暗くて急で、1段1段、体が沈みこんでいく感じがした。男は右側にある手すりにつかまった。手すりは底光りするほどつるつるに磨きこまれている。
 階段を下り切ると、焦げ茶色の木製の扉が行く手を塞いでいた。開けてはいけない扉だと男は思ったが、手がノブに伸びた。ノブのわきにはニスの剥げた跡があった。

 扉を引き開けると、荒涼とした暗い野原が広がっていた。
 川があり、向こう岸に黒い人影が見えた。人影は男に向かって、差し招くように手を振っていた。人影が自分の名前を呼んでいるような気がした。だれかなつかしい人の声のように思えた。
 いつの間にか、川の流れに足を踏み入れている自分に、男は気づいた。
 ぞっとして、引き返した。
 強い力に必死で抗うように、男は荒れ野から逃れ出て扉を閉め、這うように階段を上った。

 先刻の酒場に引き返した。
 夢の話をしたあの女はまだ店にいた。彼女の顔を見ると、男はほっとしたような気持ちになった。
「きみから聞いた夢の話の通りだったんだ。どうなっているんだ」
 男はたったいま見てきた階段と扉の話をした。
「川を渡らなかったのね。よかった」
 と女は言った。
 女のつくってくれた水割りを飲んでいると、体が溶けていくようで男はなんだか安心し、そのままそこを動きたくなくなってきた。
「これでもう、あなたは、こっち側の人。いつでもこの店に遊びに来て」
 新たな常連客として受け入られたのよ、という親しげな微笑を、女は男に投げかけた。
 いつのまにか、カウンターの並びに何人かの客がいて、男にむかってグラスを掲げ、乾杯のしぐさをした。

 医者が臨終を告げると、病院のベッドの周囲に集まっていた家族のなかから、嗚咽の声が洩れた。必死の蘇生術にもかかわらず、病人は帰らぬ人になってしまった。
 病人――いや、いまは死者となった男の妻が、だれにともなく言った。
「きのうの夜中、名前を呼んだらちょっと反応があって、もしかして意識がもどるのかしらと思った瞬間があったんだけど。結局、帰っては来なかった……」
(了)

芸生新聞1999年3月8日号

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