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#57 失踪

 夫の勤め先の電話番号を知らないことに、須藤敏恵はそのとき初めて気づいた。
 電話機の番号簿や自分のアドレス帳を何度も繰ってみたが見当たらない。記載した記憶もない。
 それどころか会社名さえ正確に思いだせなかった。
 藤本商事だったか、藤田産業だったか……いや、産業の前に化学とか食品とか入っていたようでもあるし、フジタとカタカナ表記だったようにも思える……。

 夫は仕事のことを話したがらない人間だった。
 結婚当初はそのことを不審にも不満にも感じ、さりげなく水を向けたりもしたが、そのたびに夫がひどく不機嫌になるので、しだいに仕事の話題は避けるようになり、やがてけっして話題にしなくなった。
 その後、夫は2度か3度、転職したが、その転職の回数さえ敏恵ははっきりしないほどである。

 その夫が昨夜、見かけない鞄を持ち帰った。
 会社関係のものと思い、それゆえ敏恵は鞄のことに触れなかったが、めずらしく夫の方から、重要なものだから明日忘れないようにしなければならないと言った。
 夕食後、夫は鞄から書類を取り出して何かしきりに書き込みをはじめた。敏恵は近づかないようにして、先にやすんだ。
 きょう、夫が出かけてから、鞄が残されているのを見つけ、そこで敏恵は会社の電話がわからないことに気づいた。

 敏恵は鞄を抱えて家を出た。
 夫の定期券で見たことのある駅名を運賃表で探しあて、電車に乗った。
 下車してから、駅周辺をあてずっぽうに歩きまわった。
 古びた灰色のビルの建ちならぶ殺風景なオフィス街だった。卸問屋や商事会社の類が多いらしく、トラックの出入りする集荷場所や倉庫も目についた。
 そんななかに、うろ覚えの会社名を記した看板を見つけることができた。他に似かよった会社名は見あたらず、そこが夫の会社に間違いなかった。

 間口の狭い7階建てのビルの、3階から5階がその会社になっていた。
 薄汚れた細い廊下を奥へ進むと、エレベーターがあった。あきれるほど速度の遅いエレベーターで、3階へ上がった。
 会社としての受付はなく、夫の部署も不明だったので、とりあえず総務部と札の出た部屋のドアを開いた。事務机のならぶ室内をおそるおそる覗いていると、茶碗を載せた盆を持った女性社員が通りかかり、どちらに御用でしょうと不審げに訊いた。
 名前と用件を告げると、女性社員はいよいよ不審な表情になり、何度も名を訊き返した。それから少し待つように言い、廊下の方にある給湯室に盆をもどしてから、総務部の奥の方のデスクに座っている年配の男のところへ行き、敏恵の方をしきりに見ながらこそこそと耳打ちした。
 やがて男が敏恵のところへ来て、須藤という名の社員はうちにはいないと言った。

 帰りがけにもう一度駅周辺を歩いてみたが、間違いそうな社名の会社はやはり見あたらなかった。狐につままれたような気持ちで家に帰った。
 夫のいつもの帰宅時間になると、なんだか落ち着かなくなった。
 夫は不機嫌このうえない顔で帰宅した。何も話しかけられない空気を発散していた。黙ったまま、夕食の食卓についた。箸を取ってから、ぎろりと敏恵を睨んだ。
「会社へ来たな」夫は言った。「2度とするな」
 はい、すみません、と敏恵は答えた。会社へ行ったわけを説明することも、行ってはいけない理由を尋ねることもできなかった。
 夫の目に脅えた小動物のような光が一瞬見えた。紙一重で小さな牙を剥いてやみくもな反撃に転じそうな光だった。

 翌日、夫は件の鞄を抱えて出勤していった。
 以前と変わらない毎日がふたたび始まり、敏恵はいっそう意識して会社の話題を避けるようになったが、意識するためにかえって好奇心がうずきはじめた。
 あれは夫の会社だったのか。会社へ来たなと夫が言った以上そうだったのだろう。では、なぜそんな社員はいないと言われたのか。いないはずの社員がどうして敏恵が来社したことを知ったのか。
 二度と来るなと禁止されているために、いよいよ焦れるような気持ちになった。

 そうして、ついに敏恵は弾けた。
 会社へ行き、総務課の男にもう一度会った。
 答えは同じだった。
 敏恵は食い下がり、鷲鼻で眉の下がった陰気な顔の、痩せて小柄な影の薄い男なのだが、と夫の容姿を言って問うた。
 相手はなぜか非常にいやな顔をして、首を横に振った。
 その日、夫は会社から帰らず、そのまま行方不明となった。
 自分が何か重大な失敗をしたのかと、敏恵はときおり考えるが、いったい何をしたのか、夫の失踪から3年経ったいまもわからずにいる。
(了)

芸生新聞1996年4月29日号

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