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#58 蝉時雨

 郊外の住宅街にある、狭いながらも庭つきの家。相原直美がそこに引っ越してきてから、数か月が経った。直美はあこがれていた一戸建てに住むことができて、すっかり満足していた。
 夏の盛りが近づくと、窓の外に蝉の声を聞くようになった。日盛りを過ぎると、その声はいっそう高まり、まさに蝉時雨。都会のまんなかにいては味わえないそんな環境も、直美は気に入っていた。

 ある日、家事を一段落させて、ほっと一息ついていると、蝉の声に混じって、遠く風鈴の音が聞こえてきた。それもひとつやふたつではない。たくさんの風鈴が風に揺らいでいっせいに鳴っている音。
 風鈴屋さんかしら。日の光にきらきら光る風鈴をいっぱいに吊るした屋台車の姿が、脳裡に浮かんだ。音はしだいに近づき、遠ざかり、やがて消えていった。直美はうっとりと、風鈴の音に耳を澄ました。

 数日して、またおなじような午後の時間に、窓外に物売りの声を聞いた。こんどは金魚売りの、さびさびとした呼び声。そんなもの、幼いころにも聞いた記憶はなかったが、無性に懐かしい気分になり、桶のなかで涼しげに泳ぐ赤い和金や黒い出目金の姿が浮かんだ。
 にわかに買ってみたくなり、直美は表に飛び出した。が、金魚売りの姿は見えなかった。人通りの少ない住宅街の狭いアスファルト道路が、炎天に焼かれているばかり。金魚売りの声も聞こえない。
 不審に思いながら、小走りに街を歩いてみた。いくつかの角を曲がり、あたりをひとまわりして、しかし金魚売りを見つけられないまま自宅へもどった。もどって居間に腰を下ろすと、遠くへ静かに消えていく金魚売りの声が、かすかに聞こえた。
 一休みしていた金魚売りが、また歩きはじめ、遠ざかっていくようだった。その一休みのところを見つけられなかったのを、直美は残念に思った。

 物売りの声は、それからもときおり聞こえてきた。風鈴の音、金魚売りの声、竹竿を売る声、豆腐屋のラッパなどが、遠くから近づき、また遠くへと消えていく。
 直美は、いい風情だわと、聞き入ったり、ときに物売りの姿を探して表へ出てみたりした。探しに出たときにかぎって、物売りは商売をやめてしまうようで、声は聞こえなくなり、姿を見つけることができなかった。

 古い友人の日下好江が遊びにきたのは、夏も終わりのころだった。
 手土産のケーキを食べ、紅茶を飲んで、おしゃべりに花を咲かせた。冷えたスイカを出そうとしたとき、風鈴の音が聞こえてきた。
「ねえ、聞いて。風鈴屋さんなのよ」
 直美は言った。まだ独身でマンション暮らしの好江に、この新しい家の風雅な環境を、ちょっとだけ自慢したい気持ちだった。
 しかし、好江は怪訝な表情で小首を傾げた。
「なに……? なにか聞こえるの」
「なにって、聞こえるでしょう。屋台車にいっぱい吊るされている風鈴の音」
「そんな音、聞こえないわ」
「聞こえない? ほんとに?」
 直美は窓を開いた。風鈴の音が大きくなった。直美は同意を求めるように微笑んで好江を見た。が、好江は黙って首を横に振る。
「幻聴じゃないの。そんなにいろいろの物売りの声を聞くなんて」直美の話を聞いて、好江は言った。「のんびりとした町に引っ越して、気が抜けちゃったとか」
「のんびりした町にあこがれてだんだけどな」
 直美は言った。

 それから、しばらくして、バスで20分ほどの駅前まで出かけたおり、「神経内科」という看板を見つけた。好江の言った幻聴という言葉を思い出して、直美はその医院へ入っていった。
 医者は、話をみなまで聞かずに言った。
「ああ、それは幻聴ですね」
「ほんとに?」
 あまりにすばやい診断に驚きながら、直美は訊き返した。医者は自信ありげにうなずいた。
「この街では多いんですよ。そういう症状の人。のんびりした風情のあるものにあこがれて、都会のまんなかから引っ越してくる人が多いせいでしょうね。あこがれるあまり、懐かしい物売りの声を聞いてしまう」
 直美がすこしがっかりした気分になっていると、医者が訊いた。
「蝉の声も聞こえるんじゃありませんか」
「聞こえますけど、もしかして、あれも幻聴……?」
「ええ」医者は言った。「この町は、山ひとつ潰して、大々的に宅地造成をしてできた町ですから、蝉なんて一匹も生き残ってやしません」
(了)

芸生新聞1996年6月24日号

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