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【読書コラム】わたしたちが恋愛を楽しめないのは資本主義のせいっぽい - 『あなたのセックスが楽しくないのは資本主義のせいかもしれない』クリステン・R・ゴドシー(著), 高橋璃子(訳)

 バブルの頃、恋愛は最高に楽しかったらしい。ヒットソングもヒット映画もヒット小説も、軒並み恋愛の話ばかり。その時代からテレビに出続けている芸人たちも、恋愛について面白おかしく喋り倒していた。

 1993年生まれのわたしにとって、それはとても奇妙な光景に思えた。

 恋愛至上主義を自認する女性タレントたちがアッシーくんとかメッシーくんとか、ポップな言い方をしているけれど、恋愛を通して経済的恩恵を得てきたことを語る姿はとんでもなく下品だった。

 松本人志のすべらない話で、千原ジュニアが木村裕一のエピソードとして、ナンパで部屋に連れ込んだ女がエッチさせないと言い出したので激怒、凍った鶏肉を投げつけていたと語り、みんなでケラケラ笑う様子はおぞましかった。

 なにが嫌って、あの頃、大人たちが語る恋愛はセックスを巡る綱引きのように感じられたのだ。女はセックスをせずに男から大金をせしめれば勝ち。男は安い金で女とヤレたら勝ち。そんなクソみたいなゲームを勝手に「恋愛」と呼んでいるようだった。

 そのことを裏付けるように、1986年に発表された有名なデュエット曲『男と女のラブゲーム』ではこんなことが歌われている。

(女)飲みすぎたのはあなたのせいよ
(男)弱い女のいとしさを
(女)飲みすぎたのはあなたのせいよ
(男)可愛いお前の強がりを

『男と女のラブゲーム』より

 まさに大人の恋愛といった雰囲気だけど、結局は責任を相手に押し付ける駆け引きをしているだけじゃないか! どうして、それが楽しいわけ? と子どもながらに不思議で仕方なかった。

 特に、恋愛というゲームに参加する上で、男女で背負わされるものに非対称性があることも気になった。

 男女雇用機会均等法が制定されていたと言っても、未だ、男女の賃金格差は広がったまま。お金の重みが両者であまりに違い過ぎるのはどう考えてもフェアじゃなかった。加えて、男にとってセックスは単純な快楽行為かもしれないが、女はそれで妊娠するかもしれず、不安や負担は比べものならない。

 だいたい、勝ち負けが存在しているような人間関係は安心とほど遠い。そんな相手とパートナーになったり、一緒に暮らしたり、家族を築いていけるはずがない。つまり、みんなが楽しいと言っている恋愛はテニスのシングルスのようなもの。恋人は敵であり、常に攻略対象と化していた。

 でも、本来、恋人は仲間であるべきじゃないだろうか? ダブルスの相方として、二人で共に戦うことに意味があるはずとわたしは固く信じてきた。

 ただ、こんな考えはあくまで理想論。人に話せば笑われるだろうと萎縮して、ずっと心に秘めてきた。実際、そんな恋愛、したくてできるものではないし。

 しかし、最近、『あなたのセックスが楽しくないのは資本主義のせいかもしれない』という強烈なタイトルの本を読み、自分の発想はあながち間違っていなかったらしいと気付かされた。

 ポップな外見に反し、中身はけっこう真面目な本だった。

 あらゆるものを商品化する新自由主義において、肉体も関心も愛情も、すべては売買の対象となってしまう。そのとき、現状の社会構造では、経済的に不利な立場に置かれやすい女性が損害を被るリスクは非常に高い。

 対して、二十世紀東ヨーロッパの社会主義体制に生きた女性たちは誰もが経済的に自立できていたので、むしろ幸せだったのでは? と作者は仮説を立てる。そして、具体的な事例を参照しつつ、次から次へと検証が重ねられていく。

 例えば、社会主義時代の東欧では女性が男性に経済的に頼る必要がなかった。そのため、恋愛と経済が結びつく理由がなく、誰もが好きな相手と恋をした。端的な話、お金のために結婚をするという概念が存在しなかったのだ。

 ところが、冷静終了後、新自由主義が入ってきたことで男女の経済格差が拡大。女は金持ちの男に頼らなくてはいけなくなってしまった。

 この人と別れたら損かもしれない。そんなことを思った瞬間、恋愛から楽しさは消え果てる。家事も育児も会話もセックスも、すべて、相手の機嫌を取るための生存戦略。気づけば、日常が労働に侵食されてしまう。

 もし、二人がそれぞれ経済的に自立していれば、いつ別れても問題はない。一見、ドライに思えるけれど、両方に等しく別れる権利があることほど、愛情深い関係はないだろう。

 ノーと言える人間にしか、イエスを言うことはできない。セックスをしたいと言われ、断ることができないとしたら、もはやただの奴隷である。

 もちろん、それは極端なケースだけれど、資本主義がもたらす経済格差はそんな危険を孕んでいる。だから、「あなたのセックスが楽しくないのは資本主義のせいかもしれない」という指摘はなかなかに鋭い。

 江國香織の『いくつもの週末』に収録されている『桜ドライヴとお正月』というエッセイにこんな一節がある。

 白い花びらをみあげながら、来年もこのひとと一緒に桜をみられるかしら、と思う。まったく単純な疑問文として思うのだ。
 一緒にみたい、と思うのではない。一緒にみるのかしら、と思う。
 それはなんだか不思議な感じで、そう思うとき私は自分の人生をちょっと好きになる。
 来年もこのひとと一緒に桜をみる可能性がある。
 そのことがとても希望にみちたことに思えて嬉しい。
 そうして、それは勿論一緒に桜をみない可能性もあるからこその嬉しさだ。
 物語が幸福なのは、いくつもの可能性のなかから一つが選ばれていくからで、それは私を素晴らしくぞくぞくさせる。
 果てしなく続いていく日常のなかで、自分のいまいるところを確認するポイント、というのかしら。
 一年に一度の桜ドライヴも…たぶんそういうことなのだと思う。
 そういうささいなことどもに、たぶん夫婦は支えられている。

江國香織『桜ドライヴとお正月』

 永遠に君を愛しているという言葉がわたしは嫌いだ。まるで永遠にお互いが変わらないことをよしとしているようで虫唾が走る。

 人は日々、変わり続ける。ずっと嫌いだったものが、突然、好きになったりする。首尾一貫したいないと批判されてもいいじゃないか。だって、それが成長なんだから。

 いまの君を愛している。明日の君は愛せるかしら?

 お互い、そういう単純な疑問文で相手のことを考えていたい。あっけなく終わってしまう可能性があるから、一緒にいられることに意味がある。きっと、恋愛の楽しさもそこにある。

 そして、そのためには、それぞれが経済的に自立していることがなによりも重要なのだろう。




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