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小説シリーズ

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2021年4月の記事一覧

ランドマーク(1)

ランドマーク(1)

 ジェットコースターが今まさに滑り落ちようとしている。その浮遊感に気付くやいなやわたしは目を開いた。一時のまどろみだっただろうか。それとも長い眠りだっただろうか。何度か目をしばたかせてみるものの、依然として視界には何も映り込まない。上体を起こすと、なんとか闇の中に輪郭を視認することができた。三方を囲むカーテンから、ここは病院だろうと見当を付ける。わたしの身体はベッドの上。下半身に感じる重みは、掛け

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ランドマーク(2)

ランドマーク(2)

 再び目を覚ますと、そこに闇の気配はなかった。朝にしてはやけに明るい。部屋全体が白色で覆われているからだと気付くまでに、たいして時間はかからなかった。ベッドリネン、レースのカーテン、リノリウム、ナースコール。黒々とした夜を塗りつぶすために、太陽は莫大な労力を割いたようだ。

 ベッドを囲むカーテンを開くため、わたしはリノリウムの上へ足を下ろした。裸の足裏にぼんやりとした温度が伝わる。日は高いはずだ

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ランドマーク(3)

ランドマーク(3)

 突然、部屋に甲高い音が鳴り響いた。今までに聞いたことはなかったが、小さいころによく耳にした、地震警報のものとよく似ていた。身体をこわばらせ、ベッドに顔を埋める。これほど大きな音ならば、この部屋の外まで伝わっているはずだ。にもかかわらず、一向にわたし以外の誰かはやって来ない。この音が何を表しているのか、わたしには皆目見当も付かない。だからわたしは、痛みに耐えるように、耳を塞ぎながらうずくまるしかな

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ランドマーク(4)

ランドマーク(4)

「音で、起きたの」
「そのちょっと前に起きてた」
「うるさかったでしょ」
「とっても」

 口ぶりに不安な様子は見られなかったが、わたしには分かる。わたしと母が共に過ごした年月は、この街へ塔が一つ立つまでにかかる時間よりも、ずっとずっと長い。

「おなかすいたあ」
「あたりまえでしょ、・・・・・・どれだけ」
「なに」
「梛、覚えてる。自分がいつから、眠っていたか」
「そういえば」

 覚えていない

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ランドマーク(5)

ランドマーク(5)

 わたしは屋上にいる。七月の湿った空気を押しのけるみたいに、ひょうひょうと風が吹く。校庭の土が巻き上げられて、小さなつむじ風を起こす。風にもてあそばれる前髪のあいだから、わたしはそれを見ていた。

 まったく平和な昼下がりだった。障害となるようなものはわたしの前になにもなく、歩を進めればそのうちに自然と目的地へたどり着く。そういうものだ。毎日が不審者のいない通学路。たまに道路工事があったり、AR中

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ランドマーク(6)

ランドマーク(6)

「ふぇあ」

 聞き慣れない異国の言葉みたい、いや、実際にそうか。今となっては、遠い遠い異国と成り果てた、海の向こうにある国の言葉。

「先生」
「早く戻ろう、授業中なんだ」
「わたしは」
「海良」
「わたしは、授業を受けに学校に来ているわけじゃありません」
「虫のいい考えだ」

 理科教師がめずらしい言い回しを使うな、と感心した。担任でもないくせに、わたしを屋上から引きずり下ろそうとしてくる。そ

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ランドマーク(7)

ランドマーク(7)

 とにかくここから逃げだそう、と考えたのは、一度や二度ではない。天井が嫌いだった。壁が嫌いだった。だからわたしは屋上にいる。密室とはかけ離れた場所で、立てこもりを続けているような気分。わたしの意志で選んだはずの高校も、歪に成長した今となっては枷にしかならない。精神の連続性はいつのまにかぷっつりと途切れて、どこからかわたしは過去のわたしを理解できなくなっていた。

「あと三週間で夏休みなんだし、な」

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ランドマーク(8)

ランドマーク(8)

二十一世紀なかばの世界は停滞している。それは予測にすぎないが、この国がそうなのだから、世界もおそらくそうなのだろう。

「いやでもな、動機があるんなら、がんばれるだろ」

 教師が生徒にかけることばだって、この半世紀でちっとも変わっちゃいない。

「先生はどうして教師になろうと思ったんですか」

 単純な興味からの質問だった。べつにたいした意味があって聞いたわけじゃない。ただ、わたし自身の話をする

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ランドマーク(9)

ランドマーク(9)

 やや傾きかけた陽が、ななめに窓から差し込んでくる。梅雨の時期には珍しい晴れの日が、暮れていく。空がまっ赤に染まって、世界の終わりみたいな夕陽だった。隕石でも落ちてきてさ。ほんとうに、終わっちゃえばいいのに。

 次の日は雨だった。勉強が学生の本分だとしたら、雨を降らせるのが梅雨の本分だ。だからわたしは文句もいわず、雨合羽を着て家をとびだす。

 落雷によってテザーに影響はないんですか。

 それ

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ランドマーク(10)

ランドマーク(10)

【塔】

 二十一世紀初頭の技術革新によって完成した、地球表面と静止軌道を結ぶ長さ約十万キロメートルのワイヤー。一端は地表に、もう一端には宇宙港として小さな基地が固定されている。ワイヤーはその先まで伸び、カウンターウェイトとして巨大な金属塊が括り付けられる。最初のエレベータが太平洋の公海上に建設されたのち、群発的に世界各地で建設が進められた。頻発するテロリズムに対処するため、また航空機などの衝突を

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ランドマーク(11)

ランドマーク(11)

 だから、あの山にはいまも、〈塔〉の跡が残っている。もっとも効率的に人的物資を宇宙へ届けるためのやり方。なるべく大気の少ない場所を起点とすることで、エレベータの加速に必要なエネルギーを最小化する。当然〈塔〉までは、ヘリコプターで向かわなければいけないわけだけど、三千メートルにも標高が満たないあの山なら、高山病を発症する恐れもない。活火山であることが大きな懸念点となったが、最後の噴火が紀元前まで遡る

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ランドマーク(12)

ランドマーク(12)

「梛」

「梛」

「ねえ」

 目を覚ますと、ベッドの傍らに母がいた。あいかわらずの白装束。右腕に違和感を覚えて掛け布団の下へ腕を差し込むと、どうやら点滴を打たれているらしいことが分かった。
 不自由だな。白堊の無菌室に、母とふたり。蝉の声くらい聞こえてきてもよさそうなものだが、夏は窓ガラスを隔てたそこにある。春も夏も秋も冬も、この部屋ではなんの意味もなさない。

「経過はどう」
「寝てるだけだ

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ランドマーク(13)

ランドマーク(13)

 試験の日が来た。わたしは受験者ではなく、被験者とよばれる。カーテン越しのやわらかな朝日にまどろんでいると、母がやってきた。

「おはよう」
「おはよう」
「よく寝た?」
「ん」嘘だ。

 前の日、というか正確には今日なんだけど、わたしは眠れなかった。来たるべき試験に緊張しているだとか、何かが大きく変わってしまうことを恐れているだとか、そういうわけではなかった。わたしは自分から変わる必要なんてない

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ランドマーク(14)

ランドマーク(14)

 タコの血は青いらしい。人間の血は赤いらしい。わたしの血は、何色になるんだろう。

「そのまま、深呼吸を続けてください」

 看護師の声が右側から聞こえた。わたしは天井を見つめている。

「そこで止めて、十秒我慢しましょう」

 こんなこと、昔にあったな。父と湯船に浸かって、ひゃく、かぞえたっけ。もうわたしはひとりでお風呂に入れる。当たり前だけど、それだけのことが、少しだけ、空しい。顔を湯船に沈め

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