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小説シリーズ

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ランドマーク(134)

ランドマーク(134)

 ここに来たかったのか。わたしは、望んでいた? どこまでが自分の意志で、どこからが成り行きなのか。ふかふかとした山道へ足を繰り出すたび、じゅわりと雨水がにじんでくる。まず考えるべき事がある。わたしはこれからどこへ向かうべきなのか。衝動はわたしを地獄へだって連れて行くだろう。立派な脳味噌の出番だ。

 選択肢を挙げることにする。ひとつ。このまま頂上へ向かう。日帰りであればこの軽装は向いている。昨日が

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ランドマーク(133)

ランドマーク(133)

 登山口から離れるにつれて道幅は次第に広がっていく。未舗装の道にはタイヤ痕がいくつも残っていて、昨晩この山では雨が降っていたことを示していた。なるほど、このむせ返るような熱気はそのせいだったか。

 自転車はどうするべきか、としばし思案した末、このまま木陰に隠しておくことにした。どうせここに戻ってくる。調査会がここにいるのだから、帰りにもう一度顔を拝んでやろう。わたしはサドルをさっとひと撫でしてか

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ランドマーク(132)

ランドマーク(132)

「海良って一人暮らしだっけ」

「今話すこと」

「見つかったら親に連絡されるぞ」

「別に」もともと、あってないようなものだ。とりわけ、父性に関しては。

「ていうかさ」かさ、と茂みがざわめく。この山にはざわめきがなかった。風もなければ、身じろぎをする木々すら斜面にはない。生きているわたしたちは揺れ動く。心臓の鼓動は、空気を震わせてしまうのだ。満足に会話も交わすこともできないこの状況に、苛立ちが

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ランドマーク(131)

ランドマーク(131)

 舘林の呼吸は落ち着いていた。Tシャツ、ジーンズ、スニーカー。自転車を漕いできたわたしですら、汗にまみれているというのに。どうしてあからさまな嘘を吐くのだろう。

 わたしは自転車を木陰に隠すことにした。これで見つかったのなら仕方ない。それよりも、早く近付きたかった。登山口には数人の調査会らしき人影があった。「委員会」、父の来ていた制服は確か濃紺だったはずだ。彼らは真夏にも関わらず、真っ黒の作業服

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ランドマーク(130)

ランドマーク(130)

 上り坂も下り坂もない道をおよそ一時間も走れば、登山口に着いた。登ってから一月も経たないうちに、まさかもう一度、ここに来ることになるとは。わずかに緑を残した山は先月、梅雨真っ只中のあの日よりもずっと湿り気を帯びているように見えて、停滞した熱気に吸い込まれるような心地を覚えた。恐ろしいほど風のない日だった。

 自転車をどこに止めるべきか、迷った。いわゆるママチャリで山を登るわけにも行かない。だから

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いつかの、

 プロローグ 

 この世界には壁がある。目に見える壁、見えない壁、守るための壁、分けるための壁。壁のはじまりは何だったんだろう。自分の土地であることを示すため、あるいは外側の脅威ーー例えば外敵や自然条件ーーなどから私的領域を保護するため、人は壁をつくった。

 やがて人は、閉じ込めるための壁をつくった。昔、あるアメリカ大統領がメキシコとの国境に壁を造った。移民が流入しないように。もっと昔、ドイツ

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いつかの、(幻肢)

いつかの、(幻肢)



 わたしは寒気を覚えた。わたしはきっと、この世界と完全に断絶することなどできない。外の世界と繋がっていなければ、わたしは呼吸を続けることすらできないのだ。わたしが食らった食物も水もぜんぶぜんぶ、わたしの外側からやってきたものだった。たとえアメリカの一戸建てにあるようなシェルターに閉じ籠もったとしても、[現時点で][生きるために]外部との接触(たとえそれが人とのつながりを排除したものだとしても

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いつかの、(春待ち)

いつかの、(春待ち)

三章

 気が付くと二月になっていた。ベージュのコートはわたしを日々包んでくれたけれど、誰もわたしを抱きしめてはくれなかった。寒い。オイルヒーターのある壁際へ席が替わってもなお、わたしの寒さはわたしのもののままだった。

 自転車は修理に出す踏ん切りが付かず、アパートの駐輪場で眠っている。へにゃへにゃの前輪はなんだか愛らしく見えるけれど、それはわたしの加虐趣味のせいかもしれない。バスの定期を買う気

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いつかの、(邂逅)

いつかの、(邂逅)

 毎朝五時に目が覚める。それまでは大抵、何かに追いかけられる夢を見ている。おとといは雪山だった。幼なじみと三人で中腹に穴を掘ってビバークしていると、下の方から大きな音が聞こえた。悲鳴に混じって唸り声が響く。わたしはこれが夢だと分かっているので、そこでぱちりと目を開ける。時計の針は五時を指している。

 低血圧のせいなのか、いつも頭が重い。口呼吸気味のため起き抜けは喉がカラカラで、珪藻土に水を掛ける

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いつかの、(春に)

いつかの、(春に)

四章
 春の泊。桜はまだつぼんだまま、人々の期待をシャワーみたいに浴びせられている。海良さんは三年生になり、わたしは変わらず同じ教室へ登校する。新入生たちとは付かず離れずの距離を保ちつつ、昼休みは屋上へと向かう。海良さんは大抵、アルカイック・スマイルを浮かべながらわたしを待っている。海良さんは四月一日生まれだったらしく、一日早く生まれただけで(そしてわたしの留年のせいで)二つも学年が違うのは不思議

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いつかの、(病熱)

いつかの、(病熱)

五章
 この国では、死者はどこへ行くのだろう。閉ざされたこの国で。賽の河原へも、天国へも、わたしたちはきっと、どこへも行けない。
あの日から三週間、北国の遅い花盛り。街は桜祭りで賑わっている。わたしは自転車を修理に出した。それなりに出費はあったものの、虐待されたみたいな前輪は美しい真円を描き、わたしの元へ戻ってきた。やっぱりあのホイール、処分されたんだ。わたしの自転車にはもう、打撲痕は残っていなか

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いつかの、(かごめ)

いつかの、(かごめ)

 梛さんと学校以外の場所で会うのは初めてだった。不思議な関係。友人よりも遠い距離感で、しかし友人以上に運命じみたものを感じている。言葉にするたび、それは陳腐なものへと変わっていってしまいそうで、感情を押し込めてわたしは梛さんに会うのだった。

 どんな服を着ていけばいいのか分からない。ひとまずパーカーを羽織ってみる。フードを被ったり、下ろしたり。もうどうでもいいや。勢いのままアパートの階段を下った

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いつかの、(ロスタイム)

いつかの、(ロスタイム)

六章

 梛さんがわたしの前から失踪して数日が経った。桜祭りの最中、わたしを介抱した後、まさに煙のように、梛さんはわたしの視界の外側へと消えた。

 わたしは高校へ通わなければいけない。これ以上父親に迷惑をかけたくはない。父から連絡はないものの、高校から通達が届いているはずだ。父はどんな顔をしただろうか。わたしのモラトリアムに。

 リストカットの痕みたいに、ふとしたとき留年という烙印はわたしの視

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いつかの、(潜水)

 どういうわけか、梛さんとわたしは一向に顔を合わせなかった。わたしは直接、梛さんに会いたかった。だから連絡は取らなかった。
 わたしは足しげく屋上へ通ったし、なんなら駐輪場で待ち構えてもいた。さすがに三年生のフロアに足を運ぶのはためらわれたが、それ以外、梛さんのやって来そうな場所へはすべて、行ったつもりだ。

 しかし梛さんは現れなかった。どういうことだろう。この前までは、わたしが梛さんを避けてい

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