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いつかの、(春待ち)

三章


 気が付くと二月になっていた。ベージュのコートはわたしを日々包んでくれたけれど、誰もわたしを抱きしめてはくれなかった。寒い。オイルヒーターのある壁際へ席が替わってもなお、わたしの寒さはわたしのもののままだった。


 自転車は修理に出す踏ん切りが付かず、アパートの駐輪場で眠っている。へにゃへにゃの前輪はなんだか愛らしく見えるけれど、それはわたしの加虐趣味のせいかもしれない。バスの定期を買う気にはとてもなれなかった。冬の路線バスは信じられないほどに混雑するのだ。加えて電車よりも激しい揺れ、とどめは渋滞による遅刻の危険性。そういうわけで、わたしはこの数週間、徒歩で高校に通っている。中学のころとは全然違う通学路。なにしろ住む街の人口が二十万人近く違うのだ。車通りは多いし、信号は気まぐれだし。だいたい四十分の通学時間、わたしは少しずつ物語を組み立てるようになった。二年前みたいにすらすらとあらすじは出てこない。
 物語を考えるのに飽きると、携帯を取り出して音楽を聴く。イヤホンを付けるだけで、目の前の景色は異なった色になる。まるであの頃、物語が溢れ出したときみたいに。わたしの中から物語が失われていったのは、音楽を聴くようになったからかもしれないな。流れるのは父が好きだったアイドルの曲。歌詞の意味はよく分からないけど、なぜか再生ボタンを押してしまうのだった。


 彼女たちは今何をしているのだろうか。フェミニズムの勃興とともにこの国はいくぶんか暮らしやすくなったらしいけど、アイドルはどうなったんだろう。少なくとも今現在、この国にアイドルと呼べるような職業の人間はいない。閉ざされたこの国で何があったのか、その全てをわたしは知らない。産業自体が成り立たなくなったのかもしれない。もしくは、アイドル、という枠組みそのものが、何か別の、例えば音楽家、とかに取り込まれたのかもしれない。家に帰ったら調べてみようかな、なんて考えを巡らせながらコンビニのある角を曲がる。店の前には除雪用のスコップが無造作に積み重ねられていた。そういえば、こんなに雪の少ない二月は初めてだった。
 

 アパートに着くころには背中が汗ばんでいた。冬用の肌着は熱をなかなか逃がしてくれない。部屋の戸を開け玄関へ入ると、わたしはすぐに制服を脱ぎ捨てた。目に見えるほど汗をかいたのなんて何ヶ月ぶりだろうか。体育は何かと理由をつけてサボり続けてきた。身体が熱を帯びるのが嫌いだからだ。心と身体がばらばらになっていくようで、どうしても不快感を覚えてしまう。脱ぎ捨てた制服を片付けるよりも、手洗いうがいを済ませるよりも先に、わたしは部屋の窓を開ける。三階の西向き。ベランダのない八畳一間は狭苦しく感じるけれど、ここからの眺めはわたしにとって救いだった。一月前の白鳥もこの窓のおかげ。

 手を伸ばせば届きそうな街の景色が好きだった。もしどこかで蝶がもう一度だけ羽ばたいていたとしたら、わたしはあっちのマンションに住んでいたかもしれない、あの骨董屋に生まれていたかもしれない、そういう夢想をするのが好きだ。眠れない夜には身を乗り出して星を見た。ベテルギウスを頼りにオリオン座の三つ星を探した。目的の星を見つけるのは簡単ではなかった。ここでは、空よりも街明かりがきらめくから。



 二月ともなれば、日が落ちるのは十七時を回る。身体の熱を冷ましたあと、わたしは夕暮れを眺めていた。遠くの山に隠れていく陽が空を染め上げる。あのくがねが去った後にはまた、白銀のように輝く星々がやってくる。星明かりはわたしを癒やしてくれるけれど、街明かりはわたしの胸をひたすらに締め付ける。その度にわたしは、ついぞ叶わなかった家族という幻想の形をなぞる。
 わたしに母親と呼べるような存在はいなかった。父はそのことを覆い隠すように日々を送っていたし、わたしは興味がなかった。どちらかに原因があって離縁したのかもしれないし、あるいは死別したのかもしれない。もしくはそもそも、わたしは養子なのかもしれない。母性とか父性という言葉の意味が今でもわたしにはよく分からなかった。仕事をして、ご飯を作って、洗濯をして、生ごみをコンポストに持って行って、通知表を受け取りに来て、それで十分だった。片親なんてこの時代では特段珍しいことではなかったし、父との間にはそれをコンプレックスにするほどの確執はなかった。小さい頃の写真は残っていない。ただぼんやりと、父との出来事が記憶の中にあるだけ。当時のわたしにとって、ふたりという数は完璧だった。どんなものでも半分ずつにすればいい。一枚のピザはピザカッターで、ワンホールのケーキはペティナイフで。アジの開きが一尾だけ余った日は表と裏をそれぞれ食べた(骨が喉に刺さると危ないから、と父は背骨をわたしにくれなかった)。



 父は綺麗にピザを切り分けることができなかった。麻痺の残る左手はピザカッターを握るには頼りなかったし、利き手でない右手には、不器用です、と油性ペンで書いてあった。わたしがやるよ、と申し出るたび、父はそれを断った。国境線みたいにジグザグな断面を覚えている。いつも少しだけ、わたしの取り分が多かったことも。
 それと比べ、どうだろう。今のわたしにとって、ふたりは息の詰まる数字だ。数字の2と違って、ふたりは上手に分けられないことを知ってしまったから。友達と共有する空間も、それが終わったあとのさみしい空気も、はい半分こ、なんてできない。父親以外の「ふたり」に、わたしは耐えられなかった。
 ましてや、三人なんて。わたしはこの数字を知らない。父とふたりだったときには気にしたことなんて少しもなかったのに。上手くできっこない。わたしはいつだって、父がくれた愛情の分だけ愛情を返礼してやればよかった。力学的にはそれで対等なはずだった。父と子、という関係において均衡は成立するのか、という問題はあるけれど。そこにもう一つ物体が加わる。この物体Cを母と仮定する。するととたんに計算は難解になる。父と母はもしかしたら、ふたりの間の重心を軌道の中心とする連星かもしれない。わたしの重力が加わる。どうしてもわたしはそれが想像できなかった。わたしにはもしかすると、この類いの想像力が欠如しているのかもしれない。核家族であれ二世帯家族であれ、父親の隣にいるのは常にわたしであるはずだった。それなのに。

 夕食にはポテトサラダを作ることにした。食欲がないのはいつものことだった。ポテトサラダの素にお湯をかけていく。きゅうりもハムもグリーンピースも、わたしの冷蔵庫には入っていなかった。半分だけ残っていたたまねぎに包丁を入れる。ステンレス製の持ち手がいやに冷たい。なるべく薄く切ってから、塩をまぶしてしばらく待つ。流し台の明かりはリビングのそれよりも弱くて、それだけでなんだか不安な気持ちになった。やっぱりまだ、冬なのだ。ボウルにバターを加える。落ち葉の破片みたいな形をしたポテトサラダの素は次第にお湯と混ざって、次第に流動性を失い、よく見るあのポテトサラダになった。これならバカでも作れるな。

 つぎにコショウをガリガリと砕いて振りかける。そろそろいいだろう、とたまねぎを水にさらし、濡れ手で絞る。ぎゅっと絞られたたまねぎはへなへなになって手に張り付く。


 ポテトサラダができた。具はたまねぎだけ。ポテトの白さがやけに際立つ。皿に盛り付ける気力もないので、ボウルから直接、スプーンで口に運ぶ。こたつの中で両足が汗ばんでいた。滑らかな舌触りのなかに、ぴりぴりと痺れを感じた。辛いな。きちんと水にさらしたはずなのに。どういうわけか、その辛みは舌の上にいつまでも残った。歯を磨いても、お茶を飲んでも、わたしの意識が眠りの中へ立ち消えていくまでずっと。
 

(続く)

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