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いつかの、(病熱)

五章


 この国では、死者はどこへ行くのだろう。閉ざされたこの国で。賽の河原へも、天国へも、わたしたちはきっと、どこへも行けない。
あの日から三週間、北国の遅い花盛り。街は桜祭りで賑わっている。わたしは自転車を修理に出した。それなりに出費はあったものの、虐待されたみたいな前輪は美しい真円を描き、わたしの元へ戻ってきた。やっぱりあのホイール、処分されたんだ。わたしの自転車にはもう、打撲痕は残っていなかった。

 梛さんには会っていない。屋上へと向かう足取りはいつもより重く、踊り場でついにわたしの足は棒になってしまうのだった。要するに、わたしは梛さんを避けていた。帰り道は裏町通りを通らずに、国道沿いを遠回りして帰った。久々に踏みしめるペダルの感触。一人乗りの自転車はすいすいと走る。遠くに屋台が見える。白鳥が飛来する池は、春には桜の名所として花見客が押し寄せるのだった。

 わたしだけが、戸惑いの中、梅の季節に置いてきぼり。

 林檎飴をひとつ、買って帰った。喧噪から離れ、部屋に一人。耳にはまだ、ざわめきが残っていた。

「……海良さん」

 唇を動かしてみる。呼び慣れたはずの名前は、すんなりと喉からは出てこなかった。
 汗ばむ季節がもうそこまで来ている。夜の散歩にはいちばん都合がいいけど、登下校、自転車を降りる度に、身体が熱を持っているのを感じる。朝起きて自分が風邪を引いたのだと気付いたときのような、どうしようもない苛立ち。この熱は、あの日に感じたそれとは全く別のものだった。
 Tシャツにサンダルで外へ出る。午後八時の街は、まだ昼間の熱気を完全には失っていない。

「半袖、やっぱりまだ寒い……」

 五分ほど歩いたところで、夜風に吹かれる。川面にうっすらと波が立った。石垣の上で木々が揺れている。いつものようにイヤホンを耳に付けようとしたとき、遠くに祭り囃子が聞こえた。笛と太鼓。ずっと昔に聴いたことがあるような旋律。たん。たん。たんたんたん。たんたんたんたたんたたんたんたたん。対岸からの光が桜を照らしている。橋まではだいたい二百メートル。わたしはもう喧噪には戻りたくなかった。そのまま川岸に腰を下ろす。わたしは物語を紡ぎ始める。

 わたしの父親は研究者だった。夜遅くまで研究を続け、雀の涙みたいな睡眠を取っては、また朝早くに家を出る。わたしと過ごす時間はほとんどが同じベッドの上で、それはわたしが中学校に上がるまで続いた。それでもわたしは十分過ぎるくらい幸せだったのだと、今になって思う。わたしを起こさないようなるべく音を立てずにドアを開け、わたしの寝顔を確かめに来る。わたしが眠れない日には、お話を聞かせてくれた。

「今日は、少し昔の話をしようか。聴いてくれるかな」

 それはわたしが物心の付いたばかりのころ。わたしが持っている記憶のいちばん始まり。半ば夢うつつで聴いた父の言葉は、まさに淡い幻のような、泡の断片となって、わたしに届いたのだった。

「きみのおばあちゃんの話をしよう。僕のお母さんの話」

 お母さん。聞き慣れない言葉だった。わたしにとって父は「お父さん」であり「お母さん」。その父にもお母さんがいるなんて。当時のわたしにとって、それはとても不思議なことだった。会ったことも、写真を見たこともない、お父さんのお母さん。

「おばあちゃんは、登山家だった」

 父はそう言って物語の封を切る。

「登山家っていうのは、山に登る人のことだよ」
「どうして山にのぼるの」
「お父さんにも、分からないんだ。でもきっと、好きだったからじゃないかな」

 好きだから、登る。好きな目玉焼きを焼いて食べるみたいに、ごくごく自然なこと。わたしは納得して、また聴き手に回る。ランプシェードから漏れる光は、それはそれは柔らかく、羽毛布団の感触と相まって、いつの間にかわたしは幸せに包まれていた。さっきまで眠れずにいたはずの寂しがり屋なわたしは、心の内側へと帰っていった。

「おばあちゃんに会いたい」

 わたしはそう言う。父は少し迷ったあと、困ったような笑みを浮かべて、

「……会えないんだ。死んじゃったからね」
「死んじゃったの」
「その話をしようとしていたところなんだ」

 おばあちゃんが死んでしまった話。どうしてわたしの家族はこうも欠けてばかりなんだろうか。小さいわたしには自分の内側に生まれた不安をどうすることもできなかった。パズルのピースをなくしてしまって、いくら経っても出てこない、そういう不安。
 いつかわたしは、なくしたピースのことをきっぱり忘れてしまうんじゃないか。まるではじめから、存在していなかったみたいに。

 はっとわたしは我に返る。わたしの母親は、『存在していない』のか?

 花曇りで星のない空を見上げる。祭り囃子はもう聞こえなかった。


 わたしの祖母は山で死んだ。そう父から聞かされたのだった。三人で隊を組んで、冬山に登ったときのこと。登山家としてキャリアのあった祖母は、先頭を任されていた。ルートの選定、安全の確保、予定登頂時刻に合わせたペース管理。自らの命だけでなく、他の二人の生死が、祖母の両肩にはのしかかっていた。聞いたところによると、その日は晴天で、登頂には何ら不都合のない、最高のコンディションだったということだ。そして祖母は死んだ。最後尾を歩く仲間が足を滑らせた。アイゼンが片利きになり、斜面で身体を安定させるだけの摩擦を得ることができなくなったのだ。祖母は咄嗟にザイルを引き戻したものの、勢いを止めることができなかった。祖母は一人で二人分のザイルを扱っていた。
 通常、三人で隊を組んで登る際は、最後尾のザイルを中央が受け持ち、その中央のザイルを先頭が受け持つことになっている。誰か一人が足を滑らせても他の二人が止められるように。もっと大人数で隊を組む際には、二人や三人など細かく区切って、それぞれザイルで繋ぎ合うのだという。誰か一人の滑落に、全員が巻き込まれることのないように。
 祖母と隊を組んだ二人は、冬山でそのルートを登るのが初めてのことだった。何度か経験のある祖母が、技術面も考慮されて二人分のザイルを受け持つことになった。それが仇となったのだ。結局三人は遺体で発見された。斜面から三百メートルほど下った谷底で、雪に埋もれて。滑落した際に発生した雪崩による窒息死、とのことだ。そういうわけで、アイゼンが片効きになった、というのは推測でしかない。なぜなら、事故当時の状況を知る者はもうこの世界にいないからだ。
 どうしてわたしがここまで祖母の死について知っているのか。父からその話を聞いた数年後、わたしはパソコンを持つようになり、ネット上に転がるあまたの情報に触れる機会を得た。そこで出会ったのだ。祖母の名前と、その死についての一連の顛末を。
 そう、祖母は、あの山、梛さんがキャンパスに描いた、あの山で死んだのだ。あの山が祖母の命を奪った。誰かがそう言った。わたしにはどうしてもそう考えることができなかった。祖母は自らの意思で、すべての危険を承知の上で、あの山に登り、生きて帰ることに失敗した。それだけのことだ。どうして山を憎むことがあろうか。
 
 桜が満開になってから、初めての週末。城趾は人で溢れる。わたしはアパートの窓から顔を出している。桜の香りでもしないかと、小鼻をひくひくと動かしてみる。しない。暖かな春の大気が部屋へと流れ込み、部屋干しの洗濯物をわずかに揺らした。

 結局梛さんには連絡を取ることさえしていない。怖かったからだ。他人からの明確な好意が。梛さんがはたしてわたしを見初めたのかは分からないが、あの日のことを思い出すたび、わたしの胸は熱を帯びるのだった。これはきっと、梛さんからもらった熱。それはいまだ冷めることなく、わたしの身体を駆けめぐっていた。

 昼には冷麺を食べた。外食する気にはなれず、近所のスーパーでスープと麺のセットを買った。麺を茹でて、流水にさらす。そのうちに輪切りにしておいた胡瓜とトマトを器に盛り付け、スープを水で薄めておく。結論から言うと、これは大して美味しくなかった。店で食べた方が数倍マシだ。ゴムのような麺を無理矢理口に押し込み、スープを飲み干した。この辛さは悪くない。強いて言えば、生まれてきたことを後悔するほど辛いやつがよかったけど。

 それからまたわたしは当てもなくぷらぷらと歩く。道という道を、自分の足で歩きたかった。一つくらいは、梛さんの知らない道もあるだろう。それは今のわたしに必要な、安っぽい優越感を与えてくれた。なんでも知ったような顔をしやがって。心の内で悪態をつく。と、それを聞いていたかのように、突然携帯電話が震えた。梛さんからのメッセージだ。桜祭りへ一緒に行かないか? わたしはすぐに返信した。行きます。

(続く)

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