いつかの、(潜水)

 どういうわけか、梛さんとわたしは一向に顔を合わせなかった。わたしは直接、梛さんに会いたかった。だから連絡は取らなかった。
 わたしは足しげく屋上へ通ったし、なんなら駐輪場で待ち構えてもいた。さすがに三年生のフロアに足を運ぶのはためらわれたが、それ以外、梛さんのやって来そうな場所へはすべて、行ったつもりだ。

 しかし梛さんは現れなかった。どういうことだろう。この前までは、わたしが梛さんを避けていた。今はその逆。梛さんが、わたしを、避けている?

 梛さんと会わなくなってから、わたしはよく笑うようになった。と、思う。鏡を見ることはあまりないので、うまく笑えているかは分からない。それは心からの笑いではなかった。誰かと会話する機会はほとんどなく、ありがとう、とか、ごめん、とか、わずかな機会にクラスメイトと機械的なやり取りを繰り返した。機械が人間に近づくには、感情表現が必要だ。だから、わたしは笑う。梛さんみたいに笑えているだろうか。わたしは口角を上げるたび、あのアルカイック・スマイルを思い出した。



 その日は風が強く、青草の匂いがわたしの鼻へよく届いた。わたしはいつものように履き慣れたスニーカーでアスファルトを踏みしめている。裏町通りを抜けて、表町通りへ。どうして自転車に乗っていないのかというと、それは単純に気分の問題だ。

 わたしは変化を求めていた。青春時代の移ろいはあまりに早い、はずだったのに、なぜだか同じ日々を繰り返しているような心地になる。そういえば本当に繰り返しているのか、とわたしは笑ってみた。繰り返しを繰り返し、何も変わっていないと嘆いているうちに、いつの間にか大人になって、そうしてわたしたちは死んでいく。

 死んだあとは?何も変わらない。変わっていないように見えるわけではなくて、実際に変化しないのだ。死んだらそこで停止ボタン。物語はおしまい。再生ボタンを押しても、はじめからは観られない。視聴できるのは、一度きりだ。

 表町通りから学校へ続く道を歩いていると、道路標示が目に飛び込んできた。「二百メートル先 工事中 通行止め」

 自転車でもないし通り抜けできるだろう、と先に目をやると、ロードローラーが道を塞いでいた。それでわたしはなんだか面倒になって、踵を返した。
 そういえば梛さんを避けていたあいだに通った脇道があったな、と思い返す。急な予定変更は嫌いではない。むしろ性に合うと言っていい。それで角を曲がる。早めに家を出ておいてよかった。遅刻ギリギリに着くような真似はしたくなかった。息を潜めて、深く潜ること。教室という水槽の中で。なるべく光の当たらないところへ。

 そこでわたしは旅をする遺伝子を思い出した。マグロは回遊魚。泳ぎ続けなければ死んでしまう性。わたしは居着き。岩陰に隠れて、夜になると動き出す。夜行性、ね。それなのに、今のわたしは変化を欲している。目立たないように、平坦な日々を送るばかりのわたしが?


 わたしは一人ではない。そう気付いた。わたしの内側には、きっと今のわたしとは別のわたしがいる。ときどきそのわたしと今のわたしは入れ替わって、記憶だけを共有する。内向的なわたしと活発なわたし。でもそこには確かな共通点がある。ぼんやりとした不安。希死念慮。酸素を血中に取り入れようと取り入れまいと、わたしのこころは消えてしまいたいと願うことをやめられずにいる。ヘモグロビンの問題だな、これは。

 精神分裂というほど大それたものではおそらくなくて、自分の内側で折り合いがつかない出来事に、別の名前を付けて安心しようとしているだけ。梛さんとの一連の顛末も、いっそのこと擦り付けてやろうか。切り離し方はよく分からないから、シャム双生児みたいに、生きていけるだろうか。不器用さへの免罪符だろうか。安堵と閃きと自己嫌悪を抱えて、わたしは歩く。

 しばらく歩いてから、わたしは自分が道に迷っていることに気付いた。おかしい。この道をあまり歩き慣れてないとはいえ、周辺の土地勘は一年間でだいぶ養われたはずだった。どういうわけか、学校へ続く道が見当たらない。この角を曲がれば、いつもの道に出るはずだ。遠くに見える学校の屋上を目印に、わたしはそう判断して歩を進める。しかしそのたびに、見慣れない道がそこにあった。

 おかしい。わたしがおかしいのか、はたまたこの世界がおかしいのか。そう広くはないはずの区画をぐるぐると廻る。時計の針はいつも通りに進んでいる。あと十分で予鈴が鳴る。遅刻だ。頭の中が冷めていく。一度こっきりの遅刻くらい大して責められはしないだろう、と分かってはいるのだが、やはり脳が認識しない。はみ出してしまう。
 毎日のように二人乗りをしておいて、何をいまさら。平坦だった心の内側で、早鐘が鳴り始める。正常な思考が失われていく。わたしはただそれを眺めるばかり。空は馬鹿みたいに青くて、飛ぶことのできない自分にもどかしさを覚えた。

 天井のない部屋から、わたしは出ることができない。閉めたはずの扉にノブはもうない。あの山だって、海を隔てたかのように遠く感じられる。

 あの山。その瞬間、私の目にあの光景が飛び込んできた。

 絵が、ある。額縁の中に、キャンバスに描かれたのと、同じ絵が。

(続く)

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