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いつかの、(邂逅)

 毎朝五時に目が覚める。それまでは大抵、何かに追いかけられる夢を見ている。おとといは雪山だった。幼なじみと三人で中腹に穴を掘ってビバークしていると、下の方から大きな音が聞こえた。悲鳴に混じって唸り声が響く。わたしはこれが夢だと分かっているので、そこでぱちりと目を開ける。時計の針は五時を指している。


 低血圧のせいなのか、いつも頭が重い。口呼吸気味のため起き抜けは喉がカラカラで、珪藻土に水を掛けるような気分でコップ一杯分の水を飲み干す。二度寝しないように、なるべくすぐベッドから出る。八畳間にキングサイズのベッド。家を出るときに父からもらったもの。父はこれを独り占めしていたみたいだった。枕はひとつだけ。どれだけ手足を広げたって、絶対にはみ出ることはない。掛け布団を振り払うように飛び起きて、すぐにカーテンを開ける。窓はあまり大きくないけれど、ないよりはずっとましだった。西向きだから朝日は見えない。むしろそれでよかったと思っている。朝が来るたびどうしようもない絶望感に襲われるから。せめて心の中だけは、ずっと真夜中のままでいさせてほしい。
 我ながら吸血鬼になったかのような気分だった。石化しないだけまだましかな。わたしの未来は石化したままだけど。日々はとうとうと流れるのに、わたしの世界はいつまで経っても代わり映えしない。これまでも、これからも。あの山を眺めながら70℃のお湯に口を付ける。


 わたしは小さい頃からいつも、運命を探していた。初恋はアニメのキャラクターで、わたしはいつもその人を探していた。頭の中には主題歌が高らかに流れ、わたしは主人公の台詞を口にする。待ってろよ。ぜったいに、迎えに行くからな。
 つまりは運命の人が欲しかったのだ。この世界の未来を分かち合うような、そんな人が。子どもながらに知っていた。未来のないこの国について。六十年来の経済停滞に陥った世界のありさまを。期待しては淡い失望を受け取り、そうしてわたしはふたりという数字を失った。わたしには親友がいる。でも、友達はいない。


 それからひと月ほど経った。最低気温が零度を上回る日も増え、わたしは炬燵のヒーターをほんの少し弱めた。高校では上級生たちが受験結果を待っている。暖かいけれど、張り詰めた空気。わたしは来月も一年生のまま。そう思うと肩が軽くなった。まだ先のこと。現実と向き合うのは、まだ先。
 なんで日本では四月から新年度が始まるんだろう、と気になって、いちどパソコンで調べたことがあった。なんでも二世紀近く前のこと、日本の元号が明治だったとき、大蔵省という省庁の役人が赤字を防ぐために年度を短くしてしまったらしい。その真偽はともかく、そんなきっかけで決まった一年間に、我々はどれだけ振り回されてきたのだろう。桜が咲く季節に入学なんて素敵じゃないか、という声もあり存続してきたようだけど、わたしからすればたまったもんじゃない。この街では桜は四月には咲かない。そもそも桜は嫌いだ。どうせ一度始まったことだから、という慣性の法則によって続いてきたようなものだ。くだらない。

 心の中で悪態をつきながら屋上へと向かうと、果たして扉は開いていた。鍵なんてかかっていないから、それ自体は特段おかしなことではない。それよりも、わたしを驚かせたのは。


 キャンバスがある。 


 ふた月前と変わらない姿で。


 あのときと同じ、黒々とした山の姿。
 驚くよりも先に、わたしは安堵していた。屋上に来れば、あのキャンバスがある。そう予想していたからだ。わたしは笑った。久々のことだった。また、あの山に会えた。
 乾いたコンクリートの上をわたしの脚がすべった。それほどに、わたしはあの絵に興味があった。二メートルほど離れた位置に急停止して、キャンパスの全体像を視界に入れる。近くで見ると、キャンバスに描かれた山は、きわめて黒に近い深緑色をしていた。背景の空はそれよりもわずかに青みを帯びた、鉄色をしていた。キャンパスの上にはその二色だけ。もしキャンバスが他の場所にあったなら、ほとんど誰もここに描かれているのがあの山だとは思わなかっただろう。徹底的に捨象された抽象画。わたしは東山魁夷の「道」を思い浮かべた。ここからそう遠くない土地の道を題材に、魁夷が自らの人生を重ね合わせて描いたものらしい。
 つまりはこういうことだ。わたしは、この絵の作者に興味がある。わたしにとって大切なあの山を描いた人物に。どうして夏山を描いたのか。どうして二色だけを用いて描いたのか。どうして空はのっぺりとしているのか。それらに対する答えはすべて、わたしの内にはないものだった。

 出会いはいつだって唐突なものだ。

 わたしはそこで海良梛という人間を見つけた。この絵の作者であり、これからしばらく、わたしと同じ世界を共有することになる相手。端的に言えば、それはわたしが追い求めていた「運命」に限りなく近いものだった

「その絵、わたしが描いたんだ」

 わたしは突然の出来事に、持っていた弁当箱を放り出しそうになる。

「は、はあ」

 今に至る一部始終を誰かに見られていた、という羞恥心で頭が真っ白になる。ようやく思考が戻ってきてからも、しばらくわたしの心臓は波打ったままだった。先ほどまで物思いに耽っていたのに、あのときの言葉が見つからない。どうやらわたしのCPUは熱暴走してしまったみたいだ。

「あなたはこの絵、好き?」
「なんというか、興味があって」
「何が描いてあるのか、分かるよね」
「山、ですよね……」
 
 海良さんは口角をほんのわずかに上げた。ごく自然な笑み。だけどわたしには海良さんが、感情を生み出すために先んじて笑ったように見えた。

「海良さん、ですか」
「そうだよ。あなたはどうしてここに来たの」
 
 海良さんの手がわたしの制服の袖に触れそうになる。わたしはあわてて後ろ手に弁当箱を隠した。

「屋上が、好きなんです。二ヶ月前も、ここに来て、この絵があって……」
「それもわたしが描いたやつだよ。今描いたこれが四枚目」
「なんで同じ絵を何度も描くんですか」

 やっとのことで疑問を口にする。わたしはこの人のことを何も知らない。きっとこの人も、わたしのことを何も知らない。せいぜい、制服のおかげで、この高校に通っていることが分かるくらいだ。それと、わたしよりも年上であること。彼女から視線を逸らして、上履きに目をやる。側面に入ったロゴは、赤色。わたしのは、青。赤はたしか、二年生が履く色だったはずだ。

「あなたは、一年生」
「はい」
「中学校はこの辺り」
「いえ、わたしは学区外入学です」
「じゃあ、あの山はそこまで馴染み深くないの」

 海良さんが顔を山へと向ける。

「わたしの地元は北の県境で、あの山は家から見えなかったんです。だから二年前までは、ほとんど気に留めたこともありませんでした」
「でも父と一緒に登ることになって、それから」
「わたしは単純に山が好きなだけ。あなたみたいに登る人、今は少なくなったよね」
「海良さんは登るんですか」
「たまに、ひとりで、ね」

 確かに登山者は全国において、年を重ねるにつれ減少していた。社会に漂う得も言われぬ閉塞感から逃れようと自然へ人が逃避するのは、わたしにとってごく自然なことのように思われた。それなのに、どうして。

「この屋上がどうして開放されるようになったか、知ってる……」
「生徒会と戦った人があるって聞いたことがあります」
「そう。じゃあどうしてそれまで閉鎖されてたのかは」
「そこまでは」
「人が、落ちたんだって」
 
 海良さんは山を眺めたまま、独り言みたいに言った。わたしは自分が、あの山の稜線沿いを歩く姿を思い浮かべた。よく晴れた白昼、一人きり。アイゼンが雪を踏みしめる音は、風にかき消される。心臓の音が聞こえる。それから、ザックとソフトシェルの擦れる音。背中は蒸れて気持ちが悪い。かいた汗は、風によって徐々に温度を奪われる。
 わたしは冬山になんて登ったこともない。理由はただ、危険だからだ。死にたくないから。滑落、雪崩、遭難、凍傷、死に至る要因はいくらだって挙げられる。作戦「いのちだいじに」。近年、国内の事故による死亡率は漸減しているらしい。登山者の減少と関連性があるのだろうか。

「それ、本当ですか……」

 空想の世界から帰還して、わたしは訪ねる。正しくは、相槌を打った、だけなんだけど。

「わたしも、詳しくは知らないんだけどね」

 海良さんはフェンスに手を掛けた。別名、落下防止柵。人が死なないための設備。この柵は、顔も名前も知らない「誰か」が飛び降りたそのときから、変わらずにいるのだろうか。
 わたしには絶対に飛び越えることのできないフェンス。積もり積もった世界への鬱憤を晴らすための最終手段。わたしにはできない。それよりもずっと、生きることに執着しているわたしがいる。その程度。だから、わたしは閉じ籠もった。あの山もオリオンも見えない部屋の中に。

 世界は人間に優しくなった。車椅子のためにスロープを、盲人のために点字ブロックを。それまで社会的弱者と捉えられていた人々が、制約から解放されるように。駅にはホームドアを。人が死なずに済むように。およそどんな人間でも切り捨てずに社会の構成員として機能させること、それが人類の生存戦略であり、思いやりの公共化。社会福祉と一般的に呼ばれるものは、基本的に国や自治体が税金を使用して行う公的サービスだ。医療もそう。
 この六十年間で社会福祉は目覚ましい進歩を遂げた。公的教育における授業料は基本的に無料。医療費も無料。それは不必要になったインフラや大幅に削減された軍事費から捻出されたもので、おそらく「壁」ができた当時からすれば随分暮らしやすい社会になったはずだ。少子化は多少なりとも改善され、結果として死亡率は低下した。

 当然、そこからあぶれる人間も依然として存在する。タナトスに取り憑かれてしまった者を救う手段は少ない。ひとりひとりの幸福のため、社会福祉は存在します。でもきっとみんな分かっている。あなたたちが死なれては困ります。この国がぼろぼろと崩れてしまうからです。構成員は人的資源。子孫繁栄、国利民福。
 屋上の縁から一歩を踏み出した「誰か」は、何を思って、何を見たのだろうか。苛烈な家庭環境、いじめ、抱えきれない秘め事、将来へのぼんやりとした不安。わたしにあとほんの少しだけ勇気があれば、わたしはもうきっとこの世界にいなかった。


 昼休みが終わる。校庭のスピーカーからチャイムが聞こえる。弁当、食べそびれちゃったな。

「また、屋上で待ってる」
 
 海良さんはそう言うと、わたしに背を向けて扉を開けた。後にはわたしとキャンバスだけが残された。薄曇りの空。叢雲があの山の頂上を覆っている。その乳白色は山頂付近の雪へと紛れて、境目がぼやけている。それはまるで、あの山が雲を介して、この世界と天をつなぎ止めたみたいだった。

(続く)


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