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いつかの、(かごめ)

 梛さんと学校以外の場所で会うのは初めてだった。不思議な関係。友人よりも遠い距離感で、しかし友人以上に運命じみたものを感じている。言葉にするたび、それは陳腐なものへと変わっていってしまいそうで、感情を押し込めてわたしは梛さんに会うのだった。

 どんな服を着ていけばいいのか分からない。ひとまずパーカーを羽織ってみる。フードを被ったり、下ろしたり。もうどうでもいいや。勢いのままアパートの階段を下った。
 ああ、こうしてわたしは、誰かを待っている。わたしはいつも受け身。十年前、ヒーロー気取りだったあのときも、きっとわたしは誰かを待っていた。わたしにヒロインを救う勇気なんてない。救いを待つ側。ああメシア。わたしは主人公になりそこなってしまいました。誰もが自分の人生では主人公、とは言うけれど、裏を返せば、わたしたちは誰かの人生における脇役に過ぎないということだ。わたしは走っていた。酔っているみたいに、息を荒げて、スニーカーの踵をばたつかせながら。



 梛さんは公衆トイレの前で待っていた。すべてがあるべき場所に収まりました、とでも言いたげな顔をして。(この人のおかげで、わたしは主人公であることを諦められそうだ)

「わたしは桜が嫌い。死ぬことの美しさ、一瞬の儚さ、流れゆく世界への諦観と受容、そういう文脈を内包しているから」

「一言目がそれですか」

 梛さんはまた笑った。そのときわたしははじめて、唇の隙間からわずかに覗いた、白い歯を見た。この人はこんな風に笑うんだ。梛さんは白いリネン地のシャツを羽織っていた。軽くシワが付いて、内側に着たTシャツがわずかに透けている。これがお洒落なのかそうでないのか、わたしには判断しかねる。とにかく、それは梛さんによく似合っていた。雪みたいな色。シワはあの山の稜線によく似ている。

「行こうよ」

 わたしが梛さんのシャツに目を奪われているほんの数秒の間、梛さんは何を思っていたのだろう。約百五十センチメートルのパーソナルスペースをけっして侵害することのないよう、わたしと梛さんは奇妙な距離感のまま人混みの中へと紛れていった。息が詰まりそうだ。大して背の高くないわたしは周りを見渡すことができない。
 屋台の鉄板から放出された熱、人々の話し声、渦巻いた熱気は夜空へ昇ることなく、依然として地上に滞留している。わたしはその熱にあてられる。
 
 からだから、こころへと。どうしてみんなわらえるんだ? さくらがさくのはそんなにうれしいことか? どこにもいけないのに? かごのなかで、どうせしんでしまうのに? どうしてむかんかくのままでいられるんだ? 

 気が付くと梛さんの姿はなかった。ああ、こうやっていつもわたしは運命を取り逃がす。自分の手で迎えに行かないから。人々の目玉。おちおち川に飛び込むこともできない。この熱、この熱が、今はただわたしを苛立たせる。

 わたしは、籠の中の鳥の話を思い出した。何年か前、わたしがインフルエンザにかかったときのこと。父は忙殺されていて、看病をしてくれる人はいなかった。病院で貰った薬と白湯、それとなけなしの休憩時間を割いて父が作り置きしたお粥。そういえばあのときも、わたしは熱にうなされていた。

 物語が溢れんばかりにわたしの脳を泳ぎ回っていたころ、わたしは本当によく熱を出した。充電が切れたようにパタリと寝込んで、一週間は起き上がることもできない。急性上気道炎やインフルエンザの診断をもらっては、わたしは堂々と学校を欠席していたのだった。
 その日も、わたしは朝から晩までをベッドの中で過ごした。天井を見上げ、目を閉じ、壁を見つめ、また目を閉じる。そんなときでもわたしの想像力は衰えることなく、瞼の裏にはストーリーラインが浮かぶ。わたしはそれをなぞる。
 歪んだ鳥籠。わたしはその内側にいて、鉄格子を通して外の世界を見ているのだった。しばらくしているうちに、籠の外へ出ていきたいという欲望が大きくなる。幸いなことに、籠の扉には鍵がかかっていなかった。わたしは扉に脚をかける。三本の鉤爪が格子に触れる。開かない。わたしは思い出す。この籠を歪めたのは、自分ではなかったか。
 


 目の前には梛さんがいた。一メートル先、わたしのパーソナルスペースの内側。喧噪が少し遠のいて、時の流れが緩やかになったのを感じた。

「わたしは、あなたが心配なんだ」

 わたしは理由も分からず叫びそうになる。喉が掠れて声が出なかった。

「梛さんは、どうして、わたしなんかを」

「ひとまず、ここを出ようよ。もうはぐれないで」

 屋台を離れ、ベンチに二人腰掛けた。梛さんがわたしにペットボトルを手渡す。普段なら絶対に選ばないミルクティーも、わたしの身体には浸透していく。
 梛さんはその間、何も言わなかった。どうしてはぐれたのか。どうしてそんなに息を荒げたのか。どうして今までわたしが梛さんを避けているのか。またこれだ。見透かしたような態度。本当にわたしを人間として興味の対象にしているのか? 

「人にはそれぞれの地獄がある」

 わたしの呼吸が無意識のうちへと帰っていったころ、梛さんはそう話し始めた。

「わたしにはわたしの、あなたにはあなたの。分かるよね」

 わたしは今に至るまでの自分を思い返した。地獄。わたしの地獄は、この世界に生まれたこと、それ自体かもしれない。

「どんな地獄か、なんてとても共有できない。だから、『分かり合えない』ことを前提にして、そのものを肯定し合うしかない。でも、わたしは、あなたを一目見たときに思ったの。わたしとこの人の地獄は、似ているんじゃないのか、って」

 わたしにはこの人が分からない。何度そう思っただろうか。だからこそ、惹かれるのだろうか。そこまで考えてわたしは改めてはっとした。わたしが、梛さんに、惹かれている。その感情の先をわたしはまだ知らない。それすらも、おそらくわたしは好ましいと思っている.。梛さんという人間を知りたい。あの絵も、あの花弁も、このシャツも、何もかも、分からない。
 そして、梛さんが抱く感情の正体も。きっとわたしたちの想いは非対称だ。新しい感情が、ふつふつと湧き上がってくる。この人と出会ってから、わたしは何度、教えられただろう。わたしが知っていた世界が、どれほど狭苦しいものだったのかを。


 わたしにとって一番高い山は、あの山。今も遠くに見える、あの山。でも本当は違う。あの山よりもずっと高い山がこの国にはたくさんある。世界にも、おそらく数えきれないほど。火星には太陽系で一番高い山がある。何かの雑誌で、新人の宇宙飛行士が語っていた。夢は、オリンポス山に登ってみたいです。それから少し経って、宇宙開発は停止された。今も地球の上空を、無人の宇宙ステーションが周回している。

 押し寄せて来る怒涛に、わたしの心は耐えられない。熱。振動。熱。振動。誰か、命名法を教えてください。わたしの呼吸のために。こんなとき、言葉はつくづく無力だ。だから、わたしは。

 梛さんに目をやる。その横顔の輪郭を静かになぞる。梛さんの鼻筋はナイフリッジだ。わたしはその上を歩く。この動悸はきっとそのせい。命の際に立ったわたしの、せめてものシグナル。ほのかに震えた空気に乗って、言葉にならない思いは空へ。

 梛さんと目が合う。お互いに口を閉ざしたまま、数秒のあいだ、わたしたちは瞳孔の中心を擦り合わせた。ヘーゼルの瞳。たぶんわたしと、同じ色。
 日が沈む。どれくらいの時間が経ったのだろう。肌に受ける風は少し冷たくて、わたしのからだから熱を奪っていった。乾いた汗の感触は、相変わらずそのまままだけど。急に疑問が浮かんだ。どうしてわたしはここにいるのだろう?視線の先に梛さんはもういなかった。

(続く)

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