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いつかの、(ロスタイム)

六章

 梛さんがわたしの前から失踪して数日が経った。桜祭りの最中、わたしを介抱した後、まさに煙のように、梛さんはわたしの視界の外側へと消えた。

 わたしは高校へ通わなければいけない。これ以上父親に迷惑をかけたくはない。父から連絡はないものの、高校から通達が届いているはずだ。父はどんな顔をしただろうか。わたしのモラトリアムに。


 リストカットの痕みたいに、ふとしたとき留年という烙印はわたしの視界に入った。社会(ここでいう社会は大人が生きるためにお金を稼ぐ世界のことだ)に出てしまえばそんなの大した差ではないのだろうけど、こと十代の一年は限りなく重い。わたし自身は幸せなんてちっとも望んではいなかった。
 希望もくそもないこの世界で野垂れ死んでやろうと思っていたし、この生への執着という慣性はいったいいつ失われるのだろうかと、外側の世界から己を眺めていた。

 しかしわたしには幸いなことに肉親があった。片親ではあるもののその愛情はわたしも十分に受け取ってきた。これを絆という。きずな、ではなく、ほだし。きずな、という言葉は、元は家畜をつなぎ留めておくための綱のことを指したのだそうだ。父親には感謝している。これは本当。
 だけど、わたしは父親に繋ぎ止められている。わたしが不幸になれば、父もきっと不幸になってしまう。それが苦しくて、苦しくて、だからわたしは幸せになろうとしなければいけなかった。天涯孤独であればどれだけ楽だっただろうか。
 もちろん、これが甘えた考えだということは分かっている。それでも。誰もわたしを見ていなければ、わたしはいくらでも不幸になれたのに。ときどきそう思うのだった。


 少しずつ校庭の桜は散り始めていて、地面に散らばった花弁は土埃で汚れた色をしている。それをわたしは屋上から眺める。衣替えももうそろそろかと、制服の袖を撫でた。背は伸びただろうか。少し大きめを買った制服は、まだ少し大きめのまま。

 屋上にキャンバスはなかった。人の気配もなく、またわたしだけの世界。
 ここは校舎が閉まるまで開放されているはずなのに、どうしていつも人がいないのだろう?
 今更の疑問を持て余した。あいにく今の私に、その問いを投げかけられるような関係の友人はいない。同級生はわたしの留年、それと梛さんとの出会いをきっかけになんだか疎遠になってしまったし、新しい同級生はわたしに気を遣っているみたいだ。悪く言えば、壁がある。膜の更に外側の、壁。

 感情が平坦になってしまった気がした。

 暖かな春風にも、わたしのこころは浮つかない。喜怒哀楽のうち、哀、以外の感情が見当たらなかった。イヤホンを耳に差し込んで音楽を聴いても、何も感じない。車窓から遠くの景色を望んでいるときの、ぼんやりとした空白。躁と鬱のちょうど真ん中、波の経たない場所。愁いを帯びた群青色。それが今のわたしに見えるすべてだった。

 今のわたしが梛さんに会ったら、どんな顔をするだろう? 

 平坦な日々はそれからしばらく続いた。何も感じないまま、聴き慣れた曲を聴き、歩き慣れた道を歩く。わたしはまたアスファルトを見つめるようになった。物語は何も浮かばないままで、視界には灰色ばかりが映る。


 六月が来た。初夏の風はまだ春風が少し混ざっていて、校庭の桜は青々と葉を茂らせる。夏服は朝夕になると寒さを覚えるほどで、わたしはいつも薄手のカーディガンを羽織っていた。これは校則違反だそうだ。そうですか。

 今のわたしにとって、大抵のことはどうでもよかった。高校だって、勉強だって、もうどうだってよかった。父を傷付けないための義務感と、わずかに残ったプライドに引きずられながら、一日を消化している。閉じ籠ろうと決めたあの日のわたしは、今よりもずっと勇敢だった。今のわたしは、ただ臆病なだけ。

 登山家は臆病な方がいい、と聞いたことがある。勇敢である、とはときに無謀であることを指す。天候が悪くなりそうだから下山しよう、だとか、あのルートは雪崩の危険があるから遠回りしよう、とか、死への恐れがときに冷静な判断を促してくれる。
 一歩踏み込むだけで命を落とす、そういう世界に登山家は生きている。だから、生き残るのはいつだって臆病な人間だ。臆病な冒険家だなんて、笑っちゃうよな。

 笑っちゃうよ。

(続く)

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