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「僕がイラストレーターになるまでの長く曲がりくねった道」 その④

この記事は昨日の続きです。

そして今度はゲーム業界に身を置く


さて、僕はイラストレーターにもなれず、漫画家も断念し・・・
やることが何も無くなった・・・

そんな或る日、調布でバイト時代に知り合った仲のいい後輩のT君が連絡をくれた。

「もりおさん、もし良かったら僕と一緒にコンピュータゲームを作りませんか? 僕は今プログラマーなんです。もりおさんにゲームのキャラクターデザインやシナリオを描いてもらって、僕がプログラミングをしますので!」
と。

ちょうど、日本でもパソコンでロールプレイングゲームが流行り出した頃だった。

何もやることがなかった僕は、気軽に引き受け、T君と有限会社を立ち上げ、今度はゲームクリエーターになった。何しろ当面飯を食わねばならなかった。

とはいえ、僕はコンピューターゲームなるものを一度もやった事がなかった。というか、見たことすらなかった。だから、何をどう作っていいのかが全く分からない。

だが、そんな事も言ってはいられなかった。取り敢えず、T君が持ってきてくれたゲーム関係の資料を勉強し、幾つかのゲームを買ってきて実際にやってみた。それで、見よう見まねでゲームの企画とキャラクターの絵コンテを作り、二人でそれを持ってゲーム制作会社へ恐る恐る営業に向かうと、当時ゲーム部門を発足させていたビクター音楽産業が何と案外簡単に契約をしてくれた。ゲーム業界が始まったばかりで、人材不足だったところにグラフィックとゲームシナリオ、プログラミング、併せて音楽(T君はセミプロ級の音楽才能を持っていた)まで出来るという事が幸いしたのだろう。

こうして、僕らは早速ゲーム制作に取り掛かり、暫くすると何とかゲームらしきものが出来上がった。そのデウリングというゲームは売り上げはいまいち伸びなかったが、短期間で完成したことでゲーム会社の信頼を得ることができ、ペイもそれなりにされたので、「これはいける!」ということになった。

*ちなみにこの「デウリング」は、販売時価格7800円。その後、一時期は中古屋で山積みされた他の中古ゲームと共に10円100円でワゴンセールで売られていた。だが、近年レトロオカルトゲームとしてレトロゲームファンの間で評判になり、価格もオークションで数万円の値がつく事もあるとのこと。残念なことに僕の手元には残ってない(笑)。

そして、調子に乗った僕らは若いプログラマーを一人増やし、その彼にゲームを1本任せた。僕も色々と勉強し、段々ゲームの面白さがわかってきた。そうして、僕らは同時進行で3本のゲーム制作を始めた。

*かの有名なファミコンゲーム「ドラゴンクエスト」もこの頃(1986年)に発売された。

最悪だったのは若いプログラマーに任せたゲーム
T君の連れて来たこの若いプログラマーは人柄は悪くないのだが、何せ肝心のプログラミングのスキルが低かった。プログラムにバグ(欠陥)が多く、ゲームが途中で動かなくなってしまうのだ。プログラミングについては僕は全くの専門外なのでT君が必死で若いプログラマーのバックアップに当たった。T君は、相当焦っていた。バグの場所を見つけようと必死でフローチャート(プログラムの流れ)をチェックする・・・
だが、膨大なプログラムから幾つあるかもしれぬ問題箇所を見つけ出す事はついにT君にもできず、最終的に制作を断念せざるを得なくなった。
とはいえ、納品先のゲーム会社から、手付金を頂いて進めていたゲームだったし、何しろ契約不履行となれば金銭問題も抱える事になる。締め切りもとうに過ぎて、とうとう私とT君は腹を括ってゲーム会社に出かけた。

ゲームが完成していない事、見かけはそれらしく見えるがプログラムに修正出来ないバグがあり、ゲームが途中で堂々巡りになる事。最後まで辿り着けない不良品である事。
それらを伝え、担当者に深々と頭を下げた。

ところが、ここでも僕は担当者から意外な返事を聞く事になる。

「まぁ、元手もかかっている事ですから、このゲームは販売します。動かなくなるというクレームは来るでしょうが、絶対に最後まで行けるゲームだという事で通します! 取り敢えず、うちでも一応プログラムをもう一度チェックしましょう。お疲れ様でした。」
彼はそう言った。

僕らは驚いた。空いた口が閉まらなかった。
何といういい加減な会社だろう。勿論、一番いい加減なのは僕らで、僕らに責任がある事なのだけれど・・・

「絶対に最後まで行けるゲームだという事で通します!」
って、どーゆー事?!

*大きな声では言えないが、実際この頃というのは僕たちの作ったゲームに限らずこういう不完全なゲームがあった事も事実だ。プレイヤーは「自分のスキルが低いから進めない」と思うのだが、実はバグというケースもあった。売れ筋で「難解なゲーム」として雑誌に掲載されているようなPCゲームの中にもそう言う不良品があった。その頃はゲーム創世記で、まるで戦後の闇市の様な時代だったのだ。僕は闇市を体験した訳ではないが(笑)。

こうして、金銭問題は何とか回避することは出来たものの、僕達は暗い気持ちでその日ゲーム会社を出た。

T君が言った。
「あのゲームをお金を出して買う人、かわいそうですね、、、あの人達、絶対にチェックなんかしませんよ。」
と。
「ダメだなぁ〜、俺たち・・・」
と僕は項垂れた・・・・

こう言う無責任なことをやっているから、神様は僕らに愛想をつかす。


転がる石のように・・・Like a rolling stone・・・
この後、事態はさらに悪くなる。
次第にゲーム作りの面白さも分かるようになってきていた僕自身も失敗した。

僕は、宮本武蔵をキャラクターにしたコンピュータゲームを考え、ゲームデザインを進めていた。納品先は新しいゲーム会社で、やるからには前より面白いものを・・・と進めていたのだが・・・

このゲームは最初アクションゲームとして企画したものだった。
だが、プログラミング上の問題からロールプレイングゲームに途中で大幅に企画変更となった。そこで時間を浪費し、さらにプログラミング以外の全てを僕が担当することで進行が遅れに遅れていった。悪いことに僕はそれでも事態をさ程深刻に考えず、自分のペースで仕事を進めていた。今これを書くのも本当に恥ずかしいのだが、僕は愚かにも自分のアイデアに自信を持つあまり、全く空気を読めていなかったのだ。毎月外注費として僕に給与のように制作費を支払っていたゲーム会社はいよいよ堪忍袋の緒を切らし、僕を世田谷の会社に呼び出すとこう言った。

「もりおさん、随分時間が掛かっていますね。ゲームデザインとキャラクターデザインをこちらで買い取りますから、ここらで手を引いてください」

有体に言えば、僕は会社員ではないが謂わば突如リストラされたのだ。

衝撃だった。

さらに担当者は、こうも言った。

「もりおさんは、ゲーム制作を何か腰掛け気分でやっていませんか? 
少なくとも私達にはそう見える」

この言葉が一番こたえた。
ずしりとこたえた。
(今思えば、この担当者は本当に良い方で、随分御迷惑をかけた)

*僕が手がけたこのRPGゲーム「ムサシの冒険」は、数ヶ月後任天堂から発売される(制作はクエスト)。トップセールスには至らなかったが、ゲーム雑誌の売り上げランキングでベスト10には何とか入り込み、僕は少なからず胸を撫で下ろした。
後日このゲームは僕の手元に送られてきたが、僕自身はこれをプレイしたことはない。

その夜、ゲーム会社から契約解除された僕は日もとっぷりと暮れた道を世田谷から246を通り、多摩川沿いの堤防をバイクで家路についた。東京とはいえ川沿いの夜道は真っ暗で、バイクのヘッドライトだけがぼんやりとアスファルトの道を照らしていた。その夜道の事を今でもはっきり覚えている。それは、人生で一番暗い夜だった。

ほとんど同時にT君の抱えていたもう一本のゲームも暗礁に乗り上げ、結局T君と立ち上げた有限会社はあえなく解散となった。にわか社長だった僕は、見事失業し、無職の身となった。


こうして、ついに僕は本当に何もやることがなくなった


気づけば早40歳が目の前に来ていた
東京に出て20年が過ぎていた

僕は全てに挫折し、失意の底に落ちた




この続きは、また明日
「最終回. もう全て終わりにしようと思った時に」に続く

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