見出し画像

4-9月の思考記録の寄せ集め

事情あって9月入学・9月卒業という形を取ったので,この時期ですが修士課程を(ほぼ)終えました.研究に没頭していた毎日だったので,社会人になると思考のパターンがいろいろと変わるだろうなと思い,院生の日々に考えていたことを記録した日記の一部を寄せ集めてnoteにしました.一人称や,個人情報に関わる表現は改変しています.私は工学・生物系の研究室にいましたが,哲学や社会学などの人文系の本を読むことが好きという背景があり,どうしてもそうした書籍に影響を受けたような表現が多いです.後から振り返ると色々こじらせてるなーと感じる部分もあるのですが,そういう愚かさも含めてどういう思考パターンに陥りがちだったのか,という記録にしておこうと思います.計12000文字程度で,さすがに全部に目を通す物好きな方がいらっしゃるかわかりませんが,600単語/分として計20分程度の文章です.つまみ食い的に読んでくださると嬉しいです.

4/5 0:25 他律的な時間を過ごすこと — 自分のモードを環境に委ねる

落ち込んだ自分のモードを強制的に変える力を持っているのは、他者や音楽や運動。身体運動によって感覚入力を変容することが自分のモードを変えることの本質。

他者との会話は、反芻思考の悪夢を見ている自分を現実に引き戻してくれる。音楽は、脳のモードを強制的に変える。少なくとも、言語を頭から追い出すことによって自意識の暴走を強制終了する。運動も同じ。

苦しみは、誰か他の人から浴びせられてるものではなくて、ただ自分が手元に抱えているだけだ。自分がやるべきは、ただそれを手放すだけ。世界は本質的に苦しいってわけではなくて、自分のモードが変わると、さっきまでの苦しみは嘘みたいにどこかに消える。自分が手元で、苦しみをずっと握りしめていただけで、決して自分の外側の世界が苦しかったわけじゃない。

4/22 22:22 言葉の毒性について

言葉がベースの思考。これに偏りすぎると、「身動きが取れなくなる」という病理に陥る。考えないで済むのなら考えたくないし、「考えるやつがえらい」とも思わない。「悩んでる人」は個人的に憎めない、というだけ。そういう弱さは憎めないが、弱さを積極的には肯定したくない。

果たして自分の思考は単なる「悩み」なのか「思考」なのか。「悩み」と「思考」を切り分けるものは一体なんなのか。悩みは同じところでぐるぐるしていて、問題解決や新たな概念の創造を意図しない思考のことか。

5/2 17:41 他者の言葉も自分の言葉も真に受けない

哲学者の言葉を咀嚼せずにそのまま受け取ってはダメなのだし、そうすると結論だけではなく、それに至る思考過程や知的態度を模倣することになるわけだが、果たしてそのように考えすぎる人生ってのはいかがなものか。なんか歯切れが悪くなるような気もしてくる。もう、普通に脱力して生きれば良いのではっていう。

人の言うことを真に受けないことの重要性。インターネットは物理空間から解放されたメディアであると同時に、身体性が剥奪されたメディアでもある。言葉にされる情報は非自明であることが多くて、だけど本人を形成してるものの大部分は、無意識的なもの —— 手癖、習慣や所作であることに、注意しなくてはいけない。

無意識でやってることはなかなか言葉にのってこない。「俺、毎日歯磨きしてるんです」とか当たり前だから、いちいち言葉にされることはない。「〇〇するように意識してるんです」っていうアドバイスは、小手先のテクニックで、それはむしろ本人が苦手で意識を積極的に駆動させなきゃいけないタイプの動作だってことだから、あまり信用できない。

言葉を信じるのではなく、その人の全てを間近で受け止めて、自分が感じることに意識を向ける。あるいは、その人から発せられる言葉を大量に浴びて、ようやく言葉にならないその人の思考のベクトル・物の見方・世界観が感覚値としてわかってくる。その人が考える「非自明なもの」の蓄積を通して、その人が「自明だと思っていること」の基盤の全体像みたいなものが、少しずつ感覚として掴めてくる。これは統計のようなもので、言葉一つ一つは単体ではとても無力。コンテクストが大事ってのは何度も言われてること。言葉そのものは空虚だから、もっと実態である肉の方をみる。言葉は、その人の現実ではなく、その人が信じたいものが現れると思う。あるいはその人が向かいたい方向性。言葉は、前に進むための言葉である。

会話ってのは既に分かってることや知ってることの反復、せいぜい編集ぐらい。互いがなんとなく気づいてたことの答え合わせ、でしかない。

5/20 0:11 物語ではなくリアルを相手にすること

無意味さからの気晴らしとして哲学を選ぶって、ある種の怠慢なのではないかと、少なくとも自分についてはそう言える気がした。

常に自然言語を操ってるだけで、パースペクティブだけを変えてってのは、環境とか世の中に対して何か直接的な働きかけをしてないっていうか、無害で抽象的な他者、おもちゃの他者、あるいは妄想的な物語と常に戦ってるだけで、自分は現実の他者の不確実性を相手にしてない。でも、人生の不確実性という報酬・ギャンブルに、もっと自分をベットしないとって思った。

リアルな他者を相手にするというのが、社会人になってからの目標。自分の思考に閉じこもらず、常に世の中に対して、実践的に働きかける。今後はモノを実装しながら、アジャイル的に思想をアップデートする段階に移行したい。理想ではなく、現実の制約条件を踏まえた上での思想を打ち立てる。

退屈の第三形式(注: 『暇と退屈の倫理学』)から逃れるために日々を享楽で満たして、人生の意味を問わないように自分の気を常に逸らし続ける。いわば有限のフレームワークの中に居続けること、思考を制限してゲームに集中すること、ゲームへの欲望を輸入して他者に掻き立てられることに、徹するべきなのかもしれない。

5/21 11:03 意志ではなく、文化と習慣に頼れ。他律的な動作に身を委ねること。有限化装置へと積極的に取り込まれること。

多少の負荷がかかる環境に、自分が壊れない程度に自分を破壊してくれる場所に身を置き、マゾヒズムを楽しむこと。自分が解体され、自分が拡張されることの享楽を見出すこと。

5/25 23:26 社会人という「余生」

社会人になるにつれて、自分の可能性の限界のようなものが急にリアルに見えてきて、まさに「解像度が上がって」、なんだかそれが期待していたような風景ではなく、思っていたよりずっと灰色のような気がすることが、とてつもなく不安で、絶望的な気分である。「違う、俺はこんな人生を生きるんじゃなかった。もっともっと創造的で可能性に開かれているような…」。将来を見たくないから将来を保留していたのだろうか。「未来ある学生」としてずっと生きていたかったのだろうか。しかし何をしても、可能性が収束してしまうことに間違いないではないか。勉強ですら選択肢を広げやしない。どんな選択も等しく不可逆的な自己破壊なのである。

6/18 18:10 デジタル退廃と積極的切断

「メディアが多すぎて、外から入ってくる刺激が多いから、自発活動が尊重されない環境」がある。つまり思考のモードが外部のトリガーに応じてパッパッパと切り替わるから、そこで自己制御感がなくなって(主体感の欠如)、無力感につながるという現象がある。だから思考モードの絶え間ない遷移に疲れて、そうした外部からの「切断」を望んでいる。まあ、サウナとかデジタル刺激切断の最たる例ではないか。

6/18 18:15 SNS時代の知性とは

バイアスを身につけるのって意外と難しい。フィルターバブルでバイアス強化する人もいるけど、適切な反省能力があって、相対主義的な正解のなさ / 絶対的価値の喪失にがんじがらめになっちゃってる人の方が多くない?っていう。そうした多方面への配慮こそが現代的な知性として扱われてる風潮あるかも。かつての演説家みたいな、言い切り型の演技性は、もはやカリスマでは無くなったのか。

6/18 18:23 天才とアイデンティティ

天才はカリキュラムを外れたところに宿る。カリキュラムは人間の能力を平均化・画一化してしまう(正規分布の裾を狭くする)。天才はカリキュラムから外れて、自由になった時間を自律的に使うところから、「極めて自然な流れで」類まれなる能力を育む。おそらくこれは人類全員が持っているポテンシャルだが、カリキュラムによって彼らの行動を制限してしまうところから可能性が遮断されているように思う。天才は人間性の極めて自然な帰結。カリキュラムから外す部分を意識的に作ることでどこかの分野で天才的になれる。

強さと弱さの両立的な話って、たぶんトレードオフに見えて全然そうじゃないというか、むしろ目的が一緒なのではないか。弱さに対する眼差しは、強さの足を引っ張るわけではない。むしろ凸凹を許容するあり方が、天才の育成と弱さの包摂、両方を満たすのであって、たぶん「人間だから全て画一的にコントロールできる」みたいなシステムの傲慢を排除していくところに、そうした問題の解決が見えてくる気がする。

アイデンティティは日々のミクロな行動の比率に直結する。所属によってアイデンティティを規定しようとするのが一番ダメ。自由になった時間をどう使うか、でアイデンティティを規定したいところだ。日常の繰り返し動作のうち、何なら愛せるのか?というミクロな視点で考えるべき。日常の繰り返し動作の中で、比較的好きなもの、あるいは耐えられるものの類型の中に「好きなこと」を見つける。まずは自律的なところ、自分一人の自由な時間から確保していき、それを少しずつ仕事に寄せていくようなイメージ?たぶん、仕事は「就活」みたいにめっちゃ張り切って見つけるものではないのかもしれない。短期集中のジャンプ型ではなくて、日常動作の延長でやっていくものではないか。

僕の場合、思想書を読むのが好きだが、その表現形式が「書くこと」でしかないことに閉塞感がある。それを「身体性」に拡張していくこと、表現形式が「文章」だけではなくて「モノ」になること。

6/18 22:13 生きることはグレーゾーンで生きること

愚かさをさらさぬように沈黙することは、生まれないこと(無)と同義である。しかし愚かさが過ぎて自分を破滅に向かわせることは死ぬこと(破壊)と同義だ。抑制と過剰のあいだ、臨界点(グレーゾーン)に生が宿る。そこに初めて生きがいがある。ギリギリをせめること。

7/13 16:33 「勉めて強いる」ことの大切さの再確認,マゾヒズム的に享楽の幅を広げること.

もうすでに,こういう言葉遣いに固執してしまうところがちょっと「あれ」だなと思う.だいぶ言語に囚われていると思う.思考が先走ってる.自意識の暴走.

やっぱり自分は能力主義的な考え方から離れきれないし,そういう「自己否定」みたいなものを一生抱えながら生きていかないといけないのだろうなと.ありのままの自分を肯定はできない.やっぱり常に「頑張って」いたい,ギリギリまで.そうじゃないと自分の人生を愛せないと思った.もうそのぐらいは許してほしい.体感値として,自己否定・自己蔑視的な視線がなかなか抜け切らないのであれば,「ありのまま」の自分を愛そうとするより,さっさと見た目に重課金してしまった方が自己肯定感の治療には手っ取り早い.

國分功一郎氏が,「勉強」はやっぱり大事って話をしていて,そうだなって思った.ここでいう「勉強」っていうのは「強いる」って意味でだ.ついつい流れてしまうような安定的なところに行かずに,こう「努める」ってこと.だが,普段マッチョ思想の強い人間がこういうこといっても仕方なくて,一周回ること,二項対立を俯瞰した上で,どちらか一方の重要性を再度指摘すること,みたいな構図に自分は随分と固執してるっていうかそこに余裕を感じる.議論の構造をいったんメタに把握した上で,それでもどちらかを「押してみる」こと.そうすれば反対側にもきちんと意識が行き渡る.

「国」とか「政治」とか,そういうマクロな構造の中にいる自分を見る遠景的な視点も大事だ.個人的な問題と政治的な問題は接続している.だから最終的には全て政治に行き着くわけだけど,その前にまずは手元で何かを変えられるかどうかを考えてみるのが先だ.

今すぐに自分の手元で「幸福」を作り出せるかっていうのが大事.どうしたら,今日がもっとハッピーになるのか?という視点.そこで有意義な「遊び」を探す.「遊び」といっても,時には「無理」をすることだってある.頑張って筋トレするとか,頑張って納得できるモノを作ってみるとか,そういう個人の「努力」(留保つき)の範疇にあるものである.そこで「遊び」を自分の手で発明することは大事だ.YouTubeに落ち着かないとかね.中途半端な快楽に安住しない.積極的にマゾヒストになれ.自分の感覚を拡張していくことへの楽しみを見出すこと.それで幸福のチャネルをリスクヘッジ的に増やしていくことだ.

もうちょっとマクロな視点に立つと,長期的な視点で今やってることに「意味」を見出せるか?っていうのがある.幸福は「多層的に」作っていくものである.多視点的に.ミクロでもマクロでもいけない.ちょうどよく,いろんな遠近感での幸福をバランス良く充足することだ.今日を小さく勝ち続けると同時に,マクロな意味にも気を配っていく.

「能動性」を失わないことが大事.自分の幸福は,自分が責任を持って創造する,という意識を持ち続けること.そのプロセスをマゾヒズム的に楽しめるように自分を改造するとかね.やっぱりそうやって世の中に適応できるように,自分の感覚を「適切に育てる」っていう意識は大事だと思う.刺激を変えるだけじゃなくて,自分の感じ方を変えるっていう努力ね.例えば微生物がプラスチック食べれるようになったとかいう話があるけど(フェイクニュースかもだけど).身の回りに溢れるゴミのような材料もどう活用するか的な視点の切り替えは大事.

7/14 23:08 内受容感覚は大事.

憂鬱メランコリー」を過大評価するってのは,要するに意識=主体=言語を過剰評価してるってこと.憂鬱ってそんな大したものじゃなくて,ようは自律神経がバグってるってことなわけ.内臓の状態推定のバグ.そこを認知言語的なアプローチを試みるってよりも,「体の調子悪いな」って思って,身体からだからフィードバックしてやることが大事.

7/16 0:57 「中立」というスタンスの脱構築

かつて尊敬していたもののいくつかは今では軽蔑の対象となり,かつて軽蔑や憎悪の対象であったもののいくつかは甘受や理解の対象となった.

中立こそが,「客観性」という名の俯瞰こそが最上の知性なのである,という価値観が,自分のなかでもはや崩れつつある.それは現状維持に過ぎないからだ.お前は,どんなに「中立」を装っても,「愚かさ」から逃げることはできない.沈む船に乗っている中で,そこに「中立」は存在しない.あるのは「無行動」か,「行動」かだけだ.そして行動の中に,有限のリソースで「誰を助けるのか」という「ひいき」の問題が,すなわち絶対的に当事者性から逃げることの出来ない,もはや「客観」という次元の存在しない領域の問題が「政治的な問題」なのである.それは,「自分が何に救われてきたのか —— 家族制度なのか,外れたものを救う包摂の論理なのか,あるいは自由競争に勝つことによる自己肯定感なのか,等々」を如実に反映する.

そう,「中立」を装うことは,すでにお前に「当事者性」が不在であること,客観性を失ってしまうほどの「熱」あるいは「狂気」あるいは「視野狭窄」が,お前に存在しないことを告白している.これですら,一種の「愚かさ」なのである.

7/19 19:58 Facebookのフィードに影響される思考

Facebookのフィードに思考が影響されてる。自分の思考は、アルゴリズムのランダム性にいつも揺さぶりをかけられてる。心地よくて身を預けたくなるランダム性と、そうでないランダム性がある。

いつでもどこでも、死はすぐそばにある。別に、それに執着してもしょうがないのだが。今ここにあることを大事にしていたい、というのはある。

現実はいつまで経ってもわからない、しかしそのわからなさを前にどうたち振る舞うのか、というところに人生観が現れるのだろう。人はみな異なるリズムを持っていて、それぞれの解像度があって、個々人の世界観を持つ。

7/20 23:25 来世思考について

受験期に無限に頑張れた気がするのは,あの時は「来世思考」が成立したからだ.「今は,全てを犠牲にしても良い」と思えたのは,その先に明るい未来を予期していたからだ.今頑張る見返りが,必ず帰ってくると.だが,大学に入って実際にその夢を叶え,「本番の人生」を今まさに生きている身としてはどうか?「今を犠牲にして将来のために頑張る」といった来世型の思考が,どこまで許容できるか?今そこにある人生を歩まずして一体どこに自分の人生がある?という空虚な疑問すら湧いてくるのであった.

ただ,その時に同時にある一つの絶対的な解にもたどり着いてしまったのであった.それは来世思考では決して見ないようにしていたが,けれども薄々,子供の頃からなんとなく気づいていた,圧倒的な事実.それは,「人生は本質的に空虚である」ということ.幼少期からの退屈が,全て一本線で繋がったのだった.いや,こうしてなんの意味もなく思える時間を,ただただ積み重ねていって,いつの間にか後から振り返って時間が過ぎ去っている,人生はそうした「捉えることのできない今」の絶え間なき反復でしかなかった.そこに,身をもって味わえる時間などなく,いつでも無味乾燥な「今」という時間だけが,実態を掴めないまま流れていくのである.

そう,だから「努力」というやつをして,何かが高まっていく自分の生成変化を楽しむのか.それも一つのあり方だが,それだけでは薄い.そうしたストイシズムだけで満足できるほど,もう若くはないのだ.何をすればいい.そう,こうして言語的な自意識が生成しない時間っていうのも一つの楽しみだ.何かに絶えず没頭している.とはいえ,人生について考えるといった「メタな瞬間」こそ,自分はその時間に人間らしさを感じるところがあって,動物的な自我の消失状態だけで人生を埋め尽くしたいとは全く思わないのだ.ある意味,僕はマゾヒスティックに退屈という位相を「楽しんでいる」とも言える.そう,それも解の一つなのだ.文学的に人生の虚しさを味わうこと.苦味という味だ.

また明日から忙しい一日が始まる.でも,一日の終わりに,ふっとこんなことを考えてみるのも悪くない.また明日の朝から,いつも通り忙殺されるだろう.絶えず何かに没頭している.それも悪くはない.けれどもふとした瞬間に立ち止まって,これは何の時間だったのか,今自分はどこに向かっているのか,どんな人生を送りたかったのか,あるいはそんな理想など持ちやしないほうがいいのか…などと,想いに耽るのも悪くない.そしてこうしたことについて,人生の空虚さを,同じように孤独に生きている誰かと共有する.そして最後には,みんな一人で死ぬ.この退屈が永遠ではないことは,どんな人間でも等しく持っている唯一の希望であるかのようにすら感じる.

8/27 19:20 ネガティブ感情に対しても厳しく批判的な視点とファクトチェックを適用する.認知療法的視点.

自分の感情の「正体」を,正確に掴むこと.感情的にならず,結論を留保することの重要性.

「人生が嫌なんじゃない.今,お前の目の前にある状況が嫌なだけだ.だがその状況は「人生そのもの」ではない.人生には幅がある」
「そんなことはわかってるけど,今の俺には目の前の状況から逃げる術がない.こうして生きるしか方法がないんだ.だから俺の人生はずっとこのまま.逃げようがない.(なら, すぐ終わらせた方が良い?)」

「目の前の状況から逃げる術がない」ってのは本当か?自分の人生は本当にこのままか?その推論に,疑いの目を向けたら良いのでは?まさしく,全てを疑うこと!自分の才能だけを疑うのではない,自分の絶望に対してすらも,厳しい懐疑の目を向けるということ.

「生きることは,苦しい.」
それは,条件節を好意的に取っ払えば,たしかに真実である.if節を共有する人間にとっては,それは紛れもない真実である.だが,そのif節は可変でもある.

確かに,希望はないかもしれない.—— 本当にないのか?世界を遊び倒す,そういうことはできないのか?
無意味で,苦しくてたまらないのはどうしてだ?—— それはお前の好きなゲームではないからだ.では,お前の好きなゲームにするためには?

幼稚園の原風景.ドッジボールで,ボールが回ってこないお前は,強い奴らがゲームをしているのを指を咥えて見ているしかない.お前は外野にいる.社会にコミットできないという退屈だ.それではゲームがつまらないのも当たり前だ.だとしたら,内野にいくのが,人生を遊び倒すコツってことなのだろうか?ゲームに対するコントロール力を手にするってことか.確かにそれは一理ある.僕にとって受験というゲームが面白かったのは,ちょうど良い難易度だったから.

人は目の前のゲームを支配しただけで,あたかも世界全体を丸ごと支配したような錯覚に陥ることがある.なぜなら,目の前のゲームこそがひとにとっての「世界」であり,「全体」だから.大事なのはフィードバックの感覚だ.もっとゲーム的に人生を考えなくてはいけないのかもしれない.諸々の仕組みをハックするってことだ.システマチックなもの,自動機械の一部として…いわば最適化関数とみて.

8/31 0:34 悲劇があるだけ,悪人はいない.人を憎まず状況を憎むこと.話はそれから.

と、いつものように思う。いや、悪人は事実としてたくさんいるが、その悪人すらも悲劇が生成した魔物のようなもので、まあこれはただの性善説とも言えるのだが。誰か特定の人間を憎むというのが個人の感情として正しくても(誰かを憎むことを否定しているわけでは全くない)、問題解決としての適応可能性はないというか、憎しみを生成してる背後のダイナミクスを把握する視点も同時に必要。少なくとも当事者以外はその視点を持っているべき。世界に対してモデル思考を適用し、力学を把握してハックするというのが脆弱な存在である人間に許された知的営為だと思ってるところがある。

僕は世界や人間社会の力学を把握したい。自分の思い通りにならない身体を思い通りにしたい。世界に、「自分」は存在しない。どうにもならない、思い通りにならない現象の波だけがそこにある。感情や、思考の波だ。そこには一過性の現象だけがただただ連鎖していて、「我思う故の」我すら存在しない。主体がないのだ。ニュートラルな現象だけが、絶えず生起している。

9/2 0:06 「人生にピンとこない」というツイートをみて.

ツイッターはこういうのがあるからダメ、恐ろしいほど核心の奥深くを純度の高い言語で抉ってくるから、こんなのをフォローして、この人間のバイブスに感染したら、いよいよ自分は本当に終わる、気になるけど絶対に見てはいけない、とストッパーかけてる。

22歳、文才あるニートの言葉には嘘がない。同時に、インターネットの言葉ごときで、世界を知った気になってはならない、と言い聞かせ続けている。拗れたヒロイズムには積極的に距離を取らないと自分が腐る。言葉は身体を蝕む。「こんなやつは甘ったれてる」とかいってしまう無理解なマッチョに手を引かれて渋々働くのが案外幸せだったりするんだな。

自分は、本気で頑張ってない、ってだけかもしれない。それはある。空虚さなんてのは、常にどれからも距離を置いているから、メタ的な次元、批評家的な外部のポジションに自分を置いてしまっているからだ。これを中立とか気取ってないで、とにかく愚かさの次元・有限性の次元に徹することで見えてくる蛇の世界もあるんだろう。鳥の世界と蛇の世界。あえて地を這う演技性・熱烈さが必要である。

こんなものは一過性の気分である。それがすぎると、途端に自分が言葉にしたことの全てはどうでも良くなる。情報過多に対してどう接するべきか、という問題はやはり常に考えるべきなのだろう。昨今の情報過多によって感受性がダウンレギュレートしてるってツイートがあったが、その通りかもしれん。もっと規律・厳しさみたいのが、一周回って必要とされる世の中になってきたかもね。そうやってイデオロギーは振動していくのかもしれん。

9/2 20:10 文学的な記述に頼りすぎない.

文学的な記述ってのは心情をうたう音楽みたいなもんで、エンタメではあっても問題解決にはならない。ヒーリングにはなっても、それは心情を消費する体験に過ぎない。本質的に問題を解決したいなら、やはり自然言語のノイズを除去して図式的に問題の構造をきちんと捉えなくてはいけない。

9/3 17:54 夜が来るたびに反復を意識する.

位相って言葉が好きだ。まず、反復のニュアンス。二つ目に、世界の見え方が変わる・表情が変わる、といったニュアンスがあること。三つ目に価値判断を伴わないこと。「視座」という言葉には「高い方が良い」と言わんばかりの手垢がたくさん付いてるから使いたくない。

夜になると、人生が砂を噛むような毎日の反復でしかないことを実感する。自分の意識の位相が、死に揃うと言ったら良いのか。人生の終わりまで、一直線に見通せるような錯覚に陥る。眠りの瞬間は死と通じている。無という暗闇の中では、<すべて>が繋がっているかのような錯覚を覚える。でも、朝は違う。朝はその日の現実的なことに意識が向いている。

気分が良い時は、言語的な思考の全てがどうでも良くなるし、自意識から解放されている。言語っていうのは、僕にとってはメランコリーに対処するときに出現するもので、それは実存に関わる問題に直面するときに発生する「意味」でもある。抽象思考っていうのはつくづく切実さのなかから生まれてくるし、言語は人を何重にも分裂させて、一枚の薄皮じゃなくする。僕が陽キャに感じる「異性」っていうのは、分裂してない他者のことだ。まんまそのまま、現れているものがその人自身なのだ。だが、対照的に心の中にいくつもの地下室を抱えているかのような人間もいる。

9/4 22:39 メタ的でないことの強さ

大学受験における成功体験と、ゲームとしての勉強を超えて本来のラディカルな「勉強」にのめり込んでしまうことによる、自己破壊と際限なき脱コード化という副作用。そして再び愚かさに徹し、鳥でありながらも地を這う蛇を演じることの必要性。無意味さを何度も経由しながら、それでも意味を創作し、夢中になれるゲームを見つけて没頭すること。

思うに、若い頃の僕の強さはメタ的でないこと、勢いがあったこと、リスクを度外視して向こう見ずに動けることにあった。だが、今は大きく異なるので、一周回って有限性を引き受けないといけない。中立であること、無関与であること、誰に対しても無害であることを諦めなくてはいけないと思っている。そうしたことに意識が回らなかったガサツな頃の方が、ずっと動きやすかった。

メタ的であるとは、複数の視点を行き来することだが、それは大袈裟に言えば複数の人生を生きることでもある。複数の他者を自分に宿し、立場の違う人間の声を内面化することだ。そうして「主観性の絶え間なき相対化の努力の末に、客観性は支えられる」(小坂井敏晶氏の至言)。

9/9 17:04 スキゾ(分裂的)とパラノ(偏執的).収束と発散.習慣と逸脱.接続と切断.偶然性と合理性.衝動と理性.

人生について抽象的に考えようとするのは,理想主義者だからだってところがあると思う.衝動で行動したがらない.その時々でやりたいことをやるっていう発想なら,そもそも「あるべき方針」なんてものを考えようとはしない.だけれども,「メタ」に考えようとする癖があるのは,衝動とかありのままに行動することに対して抑圧がきかせられてきたからだろう.

スキゾ(分裂的)とパラノ(偏執的).健康化された精神病ともいうべき,問題のある概念だと思う.ただ,院生のあいだ偏執的になりすぎたから,最近は社会人になってまた興味の幅をリゾーム的に広げて行こうかなっていう気持ちになった.イデオロギーを振動しながらバランスを取るって感覚は必要だと思う.大学生初期の課外活動ばかりをやっていた時期は,自分は底の浅い人間だというインポスター症状があり,とにかく落ち着いて勉強したくて仕方なかった.しかし,また数年してとにかく人文書をたくさん読んで,世の中との距離の取り方がわかったり,はたまた変に拗らせてしまったりしてからは,また地を這う蛇のようなプレイヤー的精神が欲しくなってきた.

フットワークの軽さというか,全体的な「明るさ」を取り戻していきたいという気持ちになって,そういう気持ちになりたいと思ったらとにかくそっち方向の情報を意識的にサンプリング(抽出)して,接種するようにしてる.筋肉つけたい時はプロテインをたくさん取るとか.減量したい時は糖分を減らすとか.

そういう形で「欲望の方向性」もメタに調整していってるような気がする.他者とか環境に影響を受けやすいので,人の力を借りないとダメな人間なんだけど,自分と他者の相互作用を良い感じに設計する,みたいなところで「主体」としての知性を使ってる気がする.自分の意志で全てを動かそうとするわけじゃない.自分の行動がシステムにどう影響を与えるか,自分—対—環境という相互作用のダイナミクスにどんな変化を与えるか?という生態学的な視点でものを見るべきなんだ.

意志っていうのは自分が固定的な見方だし,それこそ無から有が生ずる神秘的システムだから.意志ですら環境の影響を受けるんだから,環境から分離された天動説的な主体ではなくて,環境と相即不離な主体をシステムとして考えなくちゃいけない.

あとがき

友人から指摘されて確かになーと思ったのですが、悩んでいる人はむしろ認知エネルギー・思考のリソースみたいなものが有り余っていて、余ったリソースを使い果たすために自発的に考える題材としての悩みを生成しているかのような印象を覚える、と。そう考えると、やはり何かしら没頭できるタスクなり仕事なりを自分に割り当てて、「余計なことを自分に考えさせないように」適度に脳を疲弊させるっていうのは、陥りがちな反芻思考を避けて、健全に人生を楽しむライフハックの一つかもしれません。あとはそうして余っている思考のリソースが、「自分が、自分が」という内向きの思考ではなく、問題解決のような外向きの方向に向かうと理想的なのだろうな、と思います。最近は、そういう方向に少しずつ自分の思考傾向を調整していけると良いなと思っています。

この記事が参加している募集

熟成下書き

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?