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【今日のnote】続く、「ダンス・ダンス・ダンス」的な人生。

 こんにちは、狭井悠です。

 毎日更新のコラム、59日目。

 本日は、京都から移動して、名古屋に来ています。明日から、白川郷に1泊2日の取材に行くので、その前乗りです。明日の集合時間は朝5時半……早い。

 とりあえず、やっておかねばならない仕事も山積みなわけですが、なんだかんだ、毎日やるべきことに追われているこの感じは、けっこう嫌いじゃありません。

 結局、僕はエンジンかけっぱなしのワーカホリックなので、働きながら、合間に遊んで、息抜きをして、また働く……そうしたワークアズライフ的な稼動サイクルを続けるのが、いちばん性分に合っているみたいです。


村上春樹さんの小説「ダンス・ダンス・ダンス」にあまりにも影響を受けている生き方になってしまった僕

 さて、僕は今、三十四歳になるのですが、村上春樹さんの作品に、僕とまったく同い年で、似たような職業を選び、似たような問題を抱えている(ように僕には思える)男性が主人公の小説があります。

 それが、「ダンス・ダンス・ダンス」です。

 僕がこの小説をはじめて読んだのは、たしか大学生くらいの頃だったような気がしますが、読みながら「いつか、こんな感じの奇妙な暮らしをするときがくるような気がする」と、根拠なく、ふと思ったことを覚えています。

 そして、思い込みによる引き寄せの力は恐ろしいもので、それから十数年の歳月が経って、僕は三十四歳になり、この「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公と、ほんとうに、ほとんど同じような境遇で生活するようになってしまいました。


「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公は、三十四歳でフリーランスライターを営む「僕」です。

 彼は、ジャンル問わず、さまざまな紙媒体の記事を書く仕事をしていて、そうした消費されていく文章を書く仕事を「文化的雪かき」と呼んでいます。

 たとえば、こんなふうに。

「君は何か書く仕事をしているそうだな」と牧村拓は言った。
「書くというほどのことじゃないですね」と僕は言った。「穴を埋める為の文章を提供してるだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いてるんです。雪かきと同じです。文化的雪かき」
「雪かき」と牧村拓は言った。そしてわきに置いたゴルフ・クラブにちらりと目をやった。
「面白い表現だ」
(中略)
「その雪かきという表現は君が考えたのか?」
「そうですね、そうだと思う」と僕は言った。
「俺がどこかで使っていいかな?その『雪かき』っていうやつ。面白い表現だ。文化的雪かき」
『ダンス・ダンス・ダンス(上)』P360


「文化的雪かき」。

 商業的な文章を書くフリーランスライターの仕事は、ある意味では消費され続けるものです。

 文化の礎を築くような何十年、何百年と残るような仕事ではありません。

 そこに虚しさを覚えることもある——そうした葛藤と自虐が、「文化的雪かき」という言葉には含まれているように思います。

 そして、主人公の「僕」は、消費されていく文章を書く「文化的雪かき」的な仕事を、あまり好んでいないようにも感じられます。

 しかし、彼は仕事にたいして一切、手を抜かないのです。

 同業のフリーランスライターとして、僕は、この主人公である「僕」にとても好感を持っているのですが、その魅力がよくわかるのが、以下の内容です。

 少々長いですが、引用してみましょう。

 僕はタクシーを二日借りきって、カメラマンと二人で雪の降り積もった函館の食べ物やを片っ端からまわっていった。
 僕の取材はシステマチックで効率の良いものだった。この手の取材でいちばん大事なことは下調べと綿密なスケジュールの設定である。それが全てと言ってもいい。僕は取材前に徹底的に資料を集める。僕のような仕事をしている人間のために様々な調査をしてくれる組織がある。会員になって年会費を納めれば、たいていのことは調べてくれる。たとえば函館の食べ物屋についての資料をほしいといえば、かなりの量を集めてくれる。大型のコンピュータを使って情報の迷宮の中から効果的に必要な物をかきあつめてくるわけだ。そしてコピーをとって、きちんとファイルして、届けてくれる。もちろんそれなりの金はかかるが、時間と手間を金で買うのだと思えば決して高い金額ではない。
 それとは別に、僕は自分の足を使って歩きまわり、独自の情報も集める。旅行関係の資料を集めた専門図書館もあるし、地方新聞・出版物を集めている図書館もある。そういう資料を全部集めれば相当な量になる。その中から物になりそうな店をピックアップする。それぞれの店に前もって電話をかけて、営業時間と定休日をチェックする。これだけ済ませておけば、現地に行ってからの時間が相当節約される。ノートに線を引いて一日の予定表を組む。地図を見て、動くルートを書き込む。不確定要素は最小限に押さえる。
現地についてから、カメラマンと二人で店を順番に回っていく。全部で約三十店。もちろんほんの少し食べてあとはあっさり残す。味を見るだけだ。消費の洗練化。この段階では我々は取材であることを隠している。写真も写さない。店を出てから、カメラマンと僕とで味について討議し、十点満点で評価する。良ければ残すし、悪ければ落とす。だいたい半分以上を落とす見当でやる。そしてそれと平行して、地元のミニコミ誌と接触してリストからこぼれている店を五つばかり推薦してもらう。ここも回る。選ぶ。そして最終的な選択が終わるとそれぞれの店に電話をかけ、雑誌の名前を言って、取材と写真撮影を申し込む。これだけを二日で済ませる。夜のうちに僕はホテルの部屋で大体の原稿を書いてしまう。
 翌日はカメラマンが料理の写真を手早く写し、その間に僕が店主に話を聞く。手短に。全ては三日で片付く。もちろんもっと早くすませてしまう同業者もいる。でも彼らは何も調ベない。適当に有名店を選んで回るだけだ。中には何も食べないで原稿を書く人間だっている。書こうと思えば書けるのだ、ちゃんと。率直に言って、この種の取材を僕みたいに丁寧にやる人間はそれほどはいないだろうと思う。真面目にやれば本当に骨の折れる仕事だし、手を抜こうと思えば幾らでも抜ける仕事なのだ。そして真面目にやっても、手を抜いてやっても、記事としての仕上がりには殆ど差は出てこない。表面的には同じように見える。でもよく見るとほんの少し違う。
 僕は別に自慢したくてこういう説明をしているわけではない。
 僕はただ僕の仕事の概要のようなものを理解してほしいだけなのだ。僕の関わっている消耗がどのような種類の消耗であるかというようなことを。
『ダンス・ダンス・ダンス(上)』P47


 うーん、いいですね。

 すごくストイックで、入念な取材スタイルです。

 そして、この取材の工程について詳細に言及する文章の中で、特に大事だよなあと思うのは、以下の内容です。

 率直に言って、この種の取材を僕みたいに丁寧にやる人間はそれほどはいないだろうと思う。真面目にやれば本当に骨の折れる仕事だし、手を抜こうと思えば幾らでも抜ける仕事なのだ。そして真面目にやっても、手を抜いてやっても、記事としての仕上がりには殆ど差は出てこない。表面的には同じように見える。でもよく見るとほんの少し違う。

 そうそう、そうなんですよね。

真面目にやっても、手を抜いてやっても、記事としての仕上がりには殆ど差は出てこない。表面的には同じように見える。でもよく見るとほんの少し違う。」

 これは、僕が実際に仕事で書く文章にも、まさに同じことが言えます。

 僕が仕事で書く商業的な文章は、企業名義で発信されるケースがほとんどですので、基本的に「没個性」で「画一的」な文章であることが大半です。

 そこにライターの個性は見えてこない。だから、誰が書いても同じようなものになるはずなんですが、これが、そうはならないんですよね。

 ほんとうに、「ほんの少し違う」んです。

 そして、その「ほんの少し違う」何かのおかげで、僕はこれまで、1年半、フリーランスライターとしての仕事を途切れずもらい続けてこれたように思います。

 やっぱり仕事は、目に見えない部分にまで骨を折って、真面目にやることが本当に大切。真摯に仕事に向き合った結果が、没個性的で画一的な文章にも、ちゃんと宿るのです。


 思えば、僕は十代の頃から「ダンス・ダンス・ダンス」を読み続けることで、「文化的雪かき」と呼ばれる仕事を行ううえでの姿勢を、無意識のうちに学んできたのかもしれません。

「ダンス・ダンス・ダンス」という小説は、フリーランスライターとして今を生きる僕に、物書きとしての処世術を教えてくれた小説なのかもしれないなあ、と、このコラムを書きながら感じています。



 未だに、この小説を手にとって読み返すと、「自分の未来の何かを暗示したシナリオ」のように感じることがあります。とにかく、影響を受けているということですね。まあ、良くも、悪くも。

「ダンス・ダンス・ダンス」については、他にも語りたいことがたくさんあります。今日はとりあえず、このあたりにしておきましょう。

 本日は終日、僕自身が抱える「文化的雪かき」の仕事に従事します。

 今夜はたぶん、あんまりたくさん寝られないなあ、やれやれ。


 今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。

 また明日も、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。

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