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これは記事である。タイトルはまだ無い。

いつ生まれるかとんと見当がつかぬ。

書いてみたけれど良いタイトルが思いつかなくて記事を眠らせてしまうことがある。自己満足な命名は出来ても、これでは誰も開いてくれないな、と公開をためらう。読まれなくても構わない、とも考える。「誰もいない森で木が倒れたら、音はするか」というジョージ・バークリーの問いを思い出し、しかし認識論と存在論の違いすらよく分からない私は、少なくともこんなどうでもいい記事の存在はどうでもいいやという結論に至る。

世の中はそれどころではない。ロンドンでは週末、ガザの停戦を要求して推計30万人以上がデモに参加した。長男は「ロンドン中のみんなが参加してる!僕たちと、近所のベランダから見てるひと以外みんな!」と言い、次男は「8 グーグリックス サウザンド ハンドレッド人!」と大きく聞こえるでたらめな人数を言う。車椅子やベビーカーを押して参加する人や、途中スペースを見つけて礼拝するムスリム信者も。

国会議事堂近くの観覧車ロンドン・アイはパレスチナの国旗色のイルミネーション🇵🇸

最近、ゼレンスキー大統領は、(ウクライナだけでなくアフリカや中東の世界情勢を見て)犬の世界になったらベストなのに、と冗談を飛ばした。人間が理解できないことは時々あるけれど、飼い犬達は安らぎをくれるし、いつも面白いそうだ。

確かに犬の方がよっぽど平和だ。猫でも良い。長男は「吾輩は猫である」にハマっている(最初の方だけ)。鉄道で移動中、退屈したけど子供の本は嫌だというので、自分用にオーディブルでダウンロードしてあった漱石を、半分しか理解していない私のつたない同時解説付きで聞かせてみたら爆笑していた。息子が特に気に入ったのは、主人が吾輩の絵を描いているので、ギリギリまで用を足したいのを我慢してじっと寝たふりをしてあげたのに、我慢しきれなくなって立ち上がったら馬鹿者よばわりされたくだりなど。人間にシニカルな猫の視点が楽しい。

吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。ことに吾輩が時々同衾する小供のごときに至っては言語同断である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、抛り出したり、へっついの中へ押し込んだりする。しかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を磨いだら細君が非常に怒ってそれから容易に座敷へ入れない。台所の板の間で他がふるえていても一向平気なものである。吾輩の尊敬する筋向の白君などは逢う度毎に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。

夏目漱石「吾輩は猫である」https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html

昨夜、息子達が笑い転げていた作品は、さくらももこのエッセイ「答案の始末」。以下、ネタバレ。うちの子供達はトイレ関連が大好きな年齢なので、テストの答案をトイレに捨てる話に大喜びである。しかし、このエッセイ、良いことが書かれている。

相変わらずはまじは平気で低得点を公表していた。彼がもし高得点を取っても、今と同じ態度で平気なのだろうか。テストで何点でもいいじゃないか、というような不動心を持ち続けてあっけらかんとしているであろうか。

それならはまじは本物だ。

さくらももこ、答案の始末。「たいのおかしら」集英社文庫

当然、テストの点と記事の人気度は全然別物だ(隠れた良記事は沢山ある)。しかし、このような不動心は何においても大事だろう。良記事でも無ければ、タイトルもまだ無いけど、とりあえず投稿してみようかな。

一刻も早く平和が訪れますように。



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