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有限なる世界のその先に広がるは、永遠で無限なる世界。その世界の中にこそ生きる事の本質がある。

右を見ても、左を見ても、皆自分ってものを作るのに必死だ。

何とかして、私というものを作ろうと必死だ。私を何とかして形作らないと、どうにかなってしまうかのように、皆必死で、私というものを形成する。

人間というのは、私という全体から独立したものが欲しくて仕方がないらしい。全体の中から、抜け出て、独自の存在になりたい。だから、皆必死になって毎日毎日私を形成する事に命を懸けている。

皆、この全体という世界の中から出て、私という独自性を獲得した気になっているけれど、それは言ってみれば、その本人の自己満足でしかない気がする。

皆、この自分を包む全体性の中から抜け出て、私という独自性を獲得した気になっているだけで、実際には、まだこの全体性の中に包まれている。

オリジナル、オリジナル。個性、個性!とそう謳われる世界の中で、私たちは、未だ何もこの独自性を獲得などしてはいない。

私たちは、自分を包み込む全体性からただ切り離れた事を独自性と呼ぶ。でも、本当の独自性とは、この自分達を包み込む全体性の外にあるものだ。この全体性から切り離れたとしても、未だ私たちは、この全体性の中にある。私たちは、ただ全体性から、分離した存在にすぎない。分離はしたが、未だ全体性の支配下の中にいる。この中にいる限り、私という独自性を獲得する事は難しいだろう。

私たちを包むこの全体性の中にいれば、そこでは猫も杓子も皆一緒。どんな形姿をしようが、この全体性の中にあれば、そこにこれといった差など殆どない。

私たちは、自分という形を毎日必死で作っている。それも、この全体性の支配する世界の中で。人とは違う独自性というものを追いながら、でも、私たちが結果、手にするのは隣の人と何変わらない形姿。

私たちは全体性という大きな括られた輪の中に生きている。1つの輪の中でただ在るものが細かく分離したり、分化しただけのもの。それが私たち。その輪の中にあれば、程度の差は多少あるにしても、その形姿はほとんど変わらない。そこに大きな差異はない。

真の独自性というものは、この大きな輪の外に出て、初めて獲得する事が出来るもの。この輪の中では皆が皆同じもの。どんな形になろうと、どれだけ人と違う独自性を自分に持たせようと努力した所で、所詮、それは大きな輪の中の話でしかない。大きな輪の中の存在としては、皆、同じものという事になる。

私たちは、この大きな全体性という輪の中で、どんぐりの背比べをしているに過ぎない。元々同じものが、本当に小さな事で、その背丈を比べて争い合っているだけ。

私なるものというのは、この全体性という大きな輪の中では決して獲得する事は出来ない。強い個性を持った私というものは、この大きな輪の外に見出す事が出来るものだ。

私たちは、自我というものをもうすでに獲得している様な顔をしているが、この私たちがもうすでに持っているという自我は、未だこの大きな輪の中にある。輪の中の自我とは、大きな全体性から分離した存在にすぎない。分離はする。大きな輪とは全く違うものにはなる。でも、これで自分の独自性を獲得したとそう認識するのであればそれは大間違いだ。

私たちは、全体性という大きな輪の中にあり、最初は、その輪と完全に融合していて、そこに自分はなかった。でも、魚がその腹の中にたくさんの卵を孕むのと同じで、最初は何も形がなく、母親と完全に同化していた卵も、成長と共に、その姿をはっきりとさせてくる。ここで、その1つ1つの卵は、私という独自性を持った存在になる。そしてその母親が、その卵を産み、そしてその卵は海の中で孵化する。

それぞれの卵から生まれた小魚たちは、母なる海に抱かれて、その生涯を送る。母なる海の中で自分を獲得し、その自分を生きる。でも、この魚も、母親から分離して個体としての独自性は獲得した様に思えるが、でも、彼らは未だ大いなる母である海の子供のまま。個的な母からは分離したかもしれないが、未だ大いなる母、海の子供に変わりない。その大いなる母である海の中では、それぞれの魚がどんな人生を歩もうと、それは皆同じという事になる。その中で、どんなに他の魚との違いを作り出したとしても、大いなる母である海からすれば皆一緒という事になる。この中ではどんな生き方をし、どんな個性を獲得しようとも、皆一緒なのだ。

私たち人間も原理としてはこの魚と一緒。個的な両親から生まれ、私たちは、その両親から分離はした。でも、私たちはこの大きな社会という海の中で生きている。より個的なものに、なろうと努力した所で、社会という大きな海の中では皆同じ人間という事になる。大きな社会の中に包まれている存在としては、何処の誰と誰を比べてもそこには何の大差もないという事だ。

何を身につけようと、何を持とうと、この大きな社会の中に捕らわれ生きる私たちは、皆同じなのだ。

私たちは、もういい加減このくだらないどんぐりの背比べを止めにしなければいけないのかもしれない。

今の私たちがしなければいけないのは、この私たちを包み、皆同じものとして扱おうとしているこの大きな社会からいち早く抜け出る事なんじゃないだろうか?いつまでも、この大きな全体性(社会)というものの中でまどろんでいてもいけないし、この社会の中で何もかも獲得した様な顔をしていてもいけないという事だ。

この社会の中で何を獲得しようが、それは全くもって何の意味もない。私たちが意味や価値があると思って毎日崇拝しているその多くは、この社会という大きな輪の中での意味であり、価値でしかないという事を知らないといけない。

この大きな全体性(社会)という輪の外に出たのなら、輪の中にいた時とは比べようもないほど大きな、無限で永遠的な価値や、意味がそこにはあるという事を是非とも多くの人に知ってもらいたい。

私たちが今生きているのは、有限なる世界。この有限なる世界とは、何処までも続く無限なる世界に包まれている。この無限なる世界に出た時、私たちは初めて、私の本質をつかむ事に成功する。


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