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「古今十七文字徘徊」帖

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古今のふれあった俳句作品についての所感を記録しておくノートのまとめです。作品にふれあうというのは、きわめて個人的なことで、古典として名高い名句とか、コンクールの優秀作品とか、そう…
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#俳句

#25  別るるや柿喰ひながら坂の上 惟然

#25 別るるや柿喰ひながら坂の上 惟然

別るるや柿喰ひながら坂の上  惟然

 誰との別れかというと「翁に別るるとて」とあるから、師の芭蕉との別れである。
 別れの時が来て、柿を齧りながら坂の上から去ってゆく人を見送った。それだけのできごとだが、とても好きな句だ。
 別れてゆくのは、敬慕してやまない師である。
 惟然の人となりを思い合わせると、この句を初見した時のおおらかなものだという第一印象とは、ちょっと違ってむしろペーソスの漂う感じ

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#24  なほ匂ひ立つ木犀の雨の花  誓子

#24 なほ匂ひ立つ木犀の雨の花  誓子

  我が家の金木犀も今が盛りである。
 
 今日は、空が灰色にたれこめて、小雨が降ったり止んだりしている。
 そんな日であるからガラス戸も窓も閉めたままなのだが、家の内中に木犀の匂いがしている。木犀が咲きだしたのは、しばらく前であるからこの間、カーテンやらソファーやら壁紙やらに、金木犀の香りがすっかり沁みつてしまったのであろうか。寝ても覚めてても、この匂いに取り巻かれているような気がしている。

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#23  われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華 杉田久女

#23 われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華 杉田久女

  曼殊沙華と呼ぶか、彼岸花というか、この使い分けが案外難しい気がする。
 例えば、この句などは曼殊沙華でないと面白くもなんともなくなるだろう。

われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華 杉田久女

 サタンに憑かれた女人の頬が、曼珠沙華の点す光に照り映えて、深紅に染まっている、そんなイメージが浮かんでくる。
 これが「彼岸花」では、なんだか幽霊っぽくなってしまう気がする。恐ろしさが、陰にこもってくる

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#22 あやまちを重ねてひとり林檎煮る  白石冬美

#22 あやまちを重ねてひとり林檎煮る  白石冬美

 
 林檎を調理して食べるというのは、自分の経験ではほとんどない。あるとすれば、アップルパイなんぞが思いつくだけだ。
 
 例えば、芥川の句。

枝炭の火もほのめけや焼林檎 芥川龍之介

  「枝炭」というのは茶道で用いるものであるというから、焼き鳥屋の備長炭なんぞとは、違うのだろうと想像するが、茶道なんてとんと縁が無いので分からない。
 それでも、晩秋というより木枯らしの吹く冬の晩が雰囲気が出そ

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#21  やすやすと出でていさよふ月の雲  芭蕉

#21  やすやすと出でていさよふ月の雲  芭蕉

 昨晩は、名月に憎まれ口をたたいたが、今夜の月は素晴らしい。

 そこでこの風雅な一文を。

堅田十六夜の弁  芭蕉

 望月の残興なほやまず、二三子いさめて、舟を堅田の浦に馳す。その日、申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろに至る。「酔翁・狂客、月に浮れて来たれり」と、声々に呼ばふ。あるじ思ひかけず、驚き喜びて、簾をまき塵をはらふ。「園中に芋あり、大角豆あり。鯉・鮒の切り目たださぬこ

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#20 野畠や大鶏頭の自然花 一茶

#20 野畠や大鶏頭の自然花 一茶

 秋の七草もよろしいのだが、秋を極める花は、鶏頭であるかもしれない。その証とも言えそうな茂吉の一首。

鶏頭の古りたる紅の見ゆるまでわが庭のへに月ぞ照りける 茂吉

 
 名月と鶏頭、意外な組み合わせであるが、似合いそうだ。
 では、これはどうだろう。

名月や鶏頭花もにょっきにょき 良寛

 名月ではないが、同じく良寛で。

綿は白しこなたは赤し鶏頭花

 今盛んに、我が菜園でも綿が吹いている最

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#19   名をへくそかずらとぞいふ花盛り     虚子

#19 名をへくそかずらとぞいふ花盛り  虚子

 

 この花、屁糞葛と呼ばれている。畑の周囲に咲いている。

 まこと、命名というのは、慎重にしてほしいものだ。
 

名を へくそかずらとぞいふ 花盛り 虚子

 屁糞葛という呼ばれ様は、茎や葉を揉むと悪臭がすることからだ、その悪臭の素は、確かに屁の成分と同じだという。

 しかし、和名には、花の内側の赤色がお灸をすえた跡に似ることから「ヤイトバナ(灸花)」、また、筒状の小花を田植えをする早乙

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#18  冥冥といつしか卯月二十日月  鬼房        

#18 冥冥といつしか卯月二十日月 鬼房        

 さて、当地に見える今夜の月はとてもきれいだ。
 蒸し暑い夜なのだが、東の窓に月が昇ってきて、なにやら秋めく。
 蒸している割には、大気もすんでいるらしく、清かに月が見える。

 今は陰暦でいうと七月二十日の晩である。
 そこで、今夜の月は「二十日月」。
 「二十日月」は「更待月」と呼ばれている。
 「更待月」なら一番名高いのは陰暦は八月二〇日の月である。
 今年の暦で云うと九月二十二日の月である

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#17  手枕に花火のどうんどうん哉 一茶

#17 手枕に花火のどうんどうん哉 一茶

 墨田川の川開きの夜であろうか。

手枕に花火のどうんどうん哉 一茶

 「手枕」というのは、男女の共寝の際のことというのもあるが、一茶のこの句にからそういう感じがあるだろうか。
 「どうんどうん」とは、花火のあがる音である。

 (貧乏長屋に宵が来て)
 一人寝転び、ひじまくら。
 打ち上げ花火のどうんどうんという音を聞いている。
 (これも呑気きままで悪くない。)
 
 そんな風か。

 昨晩

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#15 炎天にてり殺されん天窓哉     一茶

#15 炎天にてり殺されん天窓哉 一茶

 朝飯を食べながら、NHKのニュースをつけると、トップニュースの中で当地の今日の最高気温予想は、40℃であると云うでないか。命にかかわる程の危ない気温であると、アナウンサーが真面目顔でいう。
 この街は北埼玉のどちらかというと平凡な地方都市であるが、地方気象台があるおかげで、夏であればほぼ毎日天気予報では引き合に出されてしまう。だから、毎朝、お天気情報は知りたくなくても知らされてしまうのだ。それに

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#14 中年や遠くみのれる夜の桃 三鬼

#14 中年や遠くみのれる夜の桃 三鬼

中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼

 この句は、昭和23年刊の句集「夜の桃」に収録されている。作られたのは、22年冬から22年秋までの間であるらしい。
 「中年」ということで、作者の実年齢をあげれば、この句の成立時は四十七歳から四十八歳にあたる。
 概ね俳句というのは一人称の表現であるから、その当時の三鬼のある瞬間の所感であるだろう。

 角川文庫版の『西東三鬼全句集』の「自句自解」にはこうある

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#13 思想までレースに編んで 夏至の人  伊丹公子

#13 思想までレースに編んで 夏至の人  伊丹公子

 その後も、ぼちぼちと蔵書整理をしているのだが、「花神現代俳句 伊丹公子」という、どうやら自選句集であるようだが、出てきた。これも、例の古書店で105円の値札がついていたので、剥がした。
  その、伊丹公子さんの第一句集『メキシコ貝』(昭和40年刊)からいくつかの句を。

 思想までレースで編んで 夏至の女   伊丹公子

 熱い耳潜る プールの底は 多彩

 わからない未来に賭けて ひらく日傘

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#11 七夕の夜はかりそめの踊かな  井月

#11 七夕の夜はかりそめの踊かな  井月

 こう暑いと、老耄はなはだしい己のおつむから、句を絞り出そうすると、一層暑苦しさが増してくるので、先人達のお作を読ませていただいて、七夕の夜を祝いたいと思う。

七夕の夜はかりそめの踊かな  井上井月

 いいねえ。
 岩波文庫版「井月句集」の脚注では、「七夕踊」について柳亭種彦の「小女の人情に盆を待ちかねて、七夕よりをどる故のなるべし」という言葉を引いてある。本格的には盆踊りなのだから、七夕の夜

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#10 動く葉もなくておそろし夏木立 蕪村

#10 動く葉もなくておそろし夏木立 蕪村

 鬱蒼とした夏木立の道を行く。
 行く手も、振り返っても、森はまったくの無風で、葉っぱ一枚動いてない。
 静まりかえっている、不気味、おそろしい。

 そんな感じだろうか。

 関東平野の水田地帯に生まれたので、身近には小さな雑木林はあったものの森林とまでいえるような場所は無かった。

 何度も書いてきたが、武蔵丘陵森林公園は自分にとって心身のリフレッシュの場であるのだが、平日の人気のない林間の道

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