#14 中年や遠くみのれる夜の桃 三鬼
中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼
この句は、昭和23年刊の句集「夜の桃」に収録されている。作られたのは、22年冬から22年秋までの間であるらしい。
「中年」ということで、作者の実年齢をあげれば、この句の成立時は四十七歳から四十八歳にあたる。
概ね俳句というのは一人称の表現であるから、その当時の三鬼のある瞬間の所感であるだろう。
角川文庫版の『西東三鬼全句集』の「自句自解」にはこうある。
まあ、この自句自注の言葉をまともに受け取る気は無いが、読み手の気を引くのが旨い人だとおもう。あざといというと言い過ぎだが、読者を楽しませてくれる方である。若干、露悪趣味。おじさんの一部によく見かけるタイプと、言えないこともない。
四十代後半、もうすぐに五十路となる男の脳内に或夜浮かんだ生毛のはえた熟れた桃一果、でも、遠い所の枝に。指をくわえて見ているしかないのか、さてさてどういたしましょうか?とか。
露悪趣味と云えばこの句がある。
女立たせてゆまるや赤き旱星
「ゆまる」とは排尿のことだ。そうして、「旱星」(ひでりぼし)が夏の季語である。
この句を飯島耕一が「日本のシュールレアリスム」の中で絶賛している。
これも三鬼自身の「自句自注」ではこうだ。
飯島耕一は、この句を「この詩は、一行でぼくにも感得できる荒々しくなまなましいイマージュの世界を作っていた。」と云っている。
立小便をする男が連れの女性を傍らに立たせる、ことを済ますまで待てということだろう。その婦人は男の蛮行を微塵も嫌悪する様子がないばかりか、変わりなく楚々として美しい。空には赤き日旱星。そうして、俺はそんな男のふるまいを傍で見ながら羨望していた。「旱星」とは、その俺の心象であるだろう。
ある種の倒錯的感覚と云われそうな一句である。小便をする男、傍らに立つ女、それの二人を見ている作者、三人三様にどうかしていると、そう思う人が健全なというものであろうのに。
自分は芸術家ではないからよくわからないが、実生活と作品は別物だから、作品世界でなら、この三人の気分が分からないこともない、そういう気がする。といより、飯島耕一に共感できるというほうが正直な感想である。
俳句でもこんなことが言えるのだと、云うことだ。
西東三鬼は、その危なさが魅力的だ。