水曜日の窓辺

ため息まじりに、ひと言ふた言、俳句であるような、ないような、愛想のない爺ィの句帖。 …

水曜日の窓辺

ため息まじりに、ひと言ふた言、俳句であるような、ないような、愛想のない爺ィの句帖。 *推敲せず思いついたままの形で投稿しがちなため、文意の錯誤、誤字脱字、ミスタッチが多くあります。おいおい気づいては修正します、掲載句も書き換えられます。お願い・ハート・ポチッには慎重に。

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  • 「ため息俳句番外」篇です。

    本編の「ため息俳句」には、ちょっと収まりそうもなかった試作的なもの、紀行文など、それと、自分の作品作りへの姿勢など、あれこれです。

  • ため息俳句 花々に会う

    折々の花々に寄せた句をまとめてみました。

  • 「ため息俳句」はじまりの25まで

    俳句をたしまなれる方々には世に月並俳句と云われれば、お腹立ちのことと思います。しかし、俳句のよしあしなど皆目見当もつかない老人ゆえ、せめて「月並」と云われたいと願う始まりの25回分のまとめです。番号がついています。これはせめて100回までは続けようというモチベーション保持のためにつけたものです。100回以降は、番号はありません。

最近の記事

ため息俳句番外#40 馬の耳に・・・

「馬の耳に念仏」という諺の意味を知らない人はいないだろう。  さて、今日は半年ぶりに上野のトーハクに、足を運んだ。  特別展「法然と極楽浄土」を楽しみに出かけた。  當麻寺の「綴織當麻曼荼羅」が奈良県外で初公開というではないか。そのほか、関東のあちらこちらか浄土宗寺院のお宝が集まってくるらしいとのことだ。  確かに、「綴織當麻曼荼羅」も、知恩院の「法然上人絵伝」はじめてしてあちらこちらの寺に伝わる「絵伝」などなど、二時間余りかけて、比較的ゆっくりと拝見。自分の乏しい知識を総

    • ため息俳句 春愁

       過日の琵琶湖周辺を巡った旅で、余呉湖に立ち寄った。琵琶湖の北にある湖である。賤ケ岳によって琵琶湖から隔てられる。  源頼綱の歌に、 帰る雁 声をほにあぐる 時しもあれ 南より吹く 余呉の浦風 (千載集) などがあり、歌枕の地である。  芭蕉の門下の路通の句にもある、路通は近江蕉門。 鳥共も寝入てゐるか余吾の海  ここは、湖岸の桜が有名で、その桜を見に立ち寄ったのであるが、今年の不順な開花の遅れで、蕾は膨らんでいたが蕾は蕾でしかなかった。  折しも、例年のように桜

      • #3 梟よつらくせ直せ春の雨 一茶

         「七番日記」から、梟は春の季題。 鳩、いけんしていはく 梟よつらくせ直せ春の雨  一茶 《鳩が諫めて言った 《梟よ一癖有りそうな顔つきを直しなさい。春の雨がほのぼの降っているだろう。  「つらくせ」とは、「面癖」、つい心の内が表情に出てしまう癖のことです。  これは、人ごとではなく、自分もそうで女房や子供から、しばしば注意を受けています。  仏頂面。胡散顔。浮かぬ顔。託(かこ)ち顔。賢し顔。鹿爪顔。しかめっ面。渋っ面。  何と多彩な面癖だろう。  いくら言葉をとり繕

        • ため息俳句 行く春

          行く春や白Tシャツを買い替えに  空茶

        ため息俳句番外#40 馬の耳に・・・

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        • 「ため息俳句番外」篇です。
          37本
        • ため息俳句 花々に会う
          56本
        • 「ため息俳句」はじまりの25まで
          19本

        記事

          #2 晩春の肉は舌よりはじまるか 三橋敏夫

           三橋敏夫「真神」(昭和48)所収の句。そうはいっても、この句集を読んいるわけではなくて、孫引きであります、すみません。  先に謝っておきたいと思います。ここにあげたのは、小生の助平こころのせいかもしれません。お恥ずかしいです。  昔、新興俳句運動という伝統重視の俳句にして若干ラジカルそうなムーブメントあったらしいとは、俳句作り初心者の自分も知っています。作者はその集団で最年少であった方だそうです。誰が読んでも濃厚に官能的な句であると感じるでしょう。今の時代であればさほど刺

          #2 晩春の肉は舌よりはじまるか 三橋敏夫

          ため息俳句 ショッピングモール

           日常の買い物に使えるショッピングモールはなら数か所、アウトレットはもある。県境を越えて少し車を走らせて時折行くところなら、更にいくつか。  それぞれに特色があるのだろうが、自分の目にはみんな同じように見える。どこに行っても、見知らぬ街のようである。空想上の街のようにも感じる。  どことなく落ち着かないのだ。  消費にある種の快楽を感じるということは、自分だって身に覚えがある。ショッピングモールはその快楽に身をゆだねなさいと誘惑するきらびやかな装置のようだ。その辺で、疑い深い

          ため息俳句 ショッピングモール

          ため息俳句 モンシロチョウ

           春の畑にはモンシロチョウが似合うのである。  だが、菜の花の上をひらひらと飛ぶ交う長閑な風景を手放しで楽しむことは、できなくなってしまった気もする。たしかに、何頭ものモンシロチョウが忙し気に、あちらこちらへ飛び回る姿を、昔はかわいらしいと感じたものだ。  であるが、そのモンシロチョウは、野菜作りからいえば、まったく厄介な害虫であるのだ。葉物野菜、特にこれからならキャベツであるが、それらを喰い荒らすアオムシは、モンシロチョウの幼虫時代の姿である。  そう云うわけで、「世の中に

          ため息俳句 モンシロチョウ

          #1 ゆく春や蓬が中の人の骨 星布尼 

           ちょとした出来こころで、老人の閑の埋め草にと、noteの軒下をお借りして、二度目の春も暮れようとしています。  いつまでも「俳句もどき」を言い訳にサボるのはたいがいにしようかと、後期高齢者とよばれる直前にふと思い立ち、それでは先人、同時代の皆様の作品を至らぬながらも理解の及ぶ範囲ながら、一句づつ読ませてもらおうかということにしました。そのあたりで思うこと感じたことを記録してしてゆきます。つまり、年寄の冷や水的なお勉強です。徘徊老人です。つきまして、無知と老いゆえの言いたい放

          #1 ゆく春や蓬が中の人の骨 星布尼 

          ため息俳句 花水木

          所用の帰りみち、緑の王国という植物園に立ち寄った。 日ごろ四季折々の移ろいを夫婦で見てきた、なじみの公園である。 ささめくや重なり明かし花水木  空茶たくさんの言葉を濾しぬ花水木老い二人おのおの生まれ別に死ぬ  花水木の季節である。  もうすぐに夏がやってくる。  昔、就職して間もない頃住んでいたアパートは旧甲州街道に面していて、歩道は花水木の並木になっていた。  木造二階建ての一階東角部屋であった。  仕事はとてもきつくて気の重い朝が続いていた。  そんなある朝、ドア

          ため息俳句 花水木

          ため息俳句 花筏

           昨日洗車したばかりの車は、一夜明けてみると昨夜の少雨が運んだ黄砂が、朝には乾いてこびりついていた。  こすると指先がうす黄色に汚れた。  黄砂は遠くタクラマカンやゴビでおきた砂嵐で上空に舞い上がった極微小な砂粒である。  シルクロードの上空を飛んで、そんな遠くからやってきたのだ。  ニュースは、至る所で危機が存し、偏西風にのって不穏は拡散されれつづけていると、知らせている・・・・。  それなのに、自分の場所では、ひとまずは不安を押し隠していられそうな気がしている。  そんな

          ため息俳句 花筏

          ため息俳句 お茶にしよう

          桜餅だけじゃ残念草餅も  空茶  二週間ほど前、草餅を搗いた。  畑の隅に、ヨモギを少し作っている。  若葉がいい具合になったので、家内はたまらずに草餅と搗きましょうと。 搗くと云っても、キッチン家電の自動餅つき機でするのだから、大した手間ではないが、ヨモギの下こしらえが、いつもの餅つきよりひと手間ふえる。 ヨモギを茹でるのであるが、重曹と塩少々を投入する。発色がよくなるらしい。いよいよ沸騰してくると、ヨモギの煎じられる匂いが家中に広がる、狭い家ということもあろうが、漢方薬

          ため息俳句 お茶にしよう

          ため息俳句 青麦の穂

          青麦の穂、散歩の道に。 どこからでも、赤城山を望むことがきる道である。 両側は、麦畑。 麦の穂やはるか赤城は夕霞  空茶 麦に風ここ武蔵野の果てなりし青き穂や屈む農婦の背の円ささえずるは生くる証や揚げ雲雀 麦の穂や拝啓敬具無用とす麦畑さらに遠くへ目をやらむ

          ため息俳句 青麦の穂

          ため息俳句番外#39 愉しみのコスト

           人それぞれに愉しみということは、あってほしいものだ。  それは、千人いれば千通りのありかたであるだろう。世の中のは、職業としての仕事に喜びや楽しみを感じている人は少なくない。だが、ここではそうした生業を離れて、普通にいうところの趣味のようなものから得られる愉しみについてである。  通常そういう愉しみは実益を求めておこなうわけではない。それでもその道に長ずると、実益につながることあるようだ。  無知を承知でいうが、noteでは自分のコンテンツを販売でき仕組みがあって、自分はそ

          ため息俳句番外#39 愉しみのコスト

          ため息俳句 花むしろ

           我が配偶者のお伴で、赤城山の麓、赤城南面千本桜まつりへ行った。  昨日、テレビで紹介されていたらしい。  もう何度も来ている妻のお気にいりのお花見の名所である。  ここの桜の並木と森は、前橋市の「みやぎ千本桜の森」という広大な公園になって、さまざまに整備されてきた。  もともとあった桜並木に、近接して桜の森の公園が造成されたのである。その並木と森のが一斉に満開になると、花は圧巻のボリュームとなる。 「花見は快楽である」というのが、ここに来るとよくわかる。  その桜まつり

          ため息俳句 花むしろ

          ため息俳句 若楓

           新緑の楓は、好きだ。  森林公園のカエデ園は、秋の夜のライトアップで人気ある。  その紅葉の楓は云うまでもなく美しいのであるが、晩春から初夏へかけての若々しい楓の森を歩くのも、とても気持ちのよいものだ。 さくらふぶき疎み来て若楓  空茶 我が行くに木漏れ日は青き波   木々ごとに萌へ出でにける個性かな  手前は、山つつじ。奥は新緑の楓。そうして中頃の赤い葉は、これが楓なのだ。「猩々」という。真っ赤な若葉の楓だ。 まるで、春と秋が重なっているように見えるが、今日のカエ

          ため息俳句 若楓

          ため息俳句 つれづれに柿の種

           亀田製菓の柿の種は、我が家の常備食品である。それも、子袋に分けられてあるやつだ。  毎日毎日食べるというものでなくて、例えば、テレビも飽きた、本を読むなんてことも面倒だ、などと怠惰が極まる辺りで、子袋の口を開け、ぽりぽりやる。つれづれに、食べるものだ。  このブログも、徒然なるままにということが多い。そういう時間は、兼好さんに限らず誰にしもあることだろう。  その「つれづれ」だが、佐藤春夫訳・現代語「徒然草」(河出文庫・2004)では、序段をこう訳す。  「つれづれなるま

          ため息俳句 つれづれに柿の種