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ため息俳句番外#46 執着心
「徒然草」の十一段である。
十月のころ、来栖野(現在の京都市山科の一部)という所を過ぎてある山里へたずね入ったことがったが、奥深い苔の細道を踏み分けて行ってみると、心細い有様に住んでいる小家があった。木の葉に埋もれた筧の滴ぐらいよりほかは訪れる人とてもなかろう。閼伽棚(仏前に供える水の器を置く棚)の菊紅葉など折り散らかしているのは、これでも住んでいる人があるからであろう。こんなふうにしてでも生活できるものであると、感心していると、向こうの庭のほうに大きな蜜柑の木の、枝もたわむばかりに実のなっているのがあって、それに厳重に柵を巡らしてるのであった。すこし興がさめて、こんな木がなければよかったのになあと思った。
大昔、古文の時間に読まされた記憶がある、たぶん世間によく知られている話であろう。
来栖野を越えていったあたり兼好法師が見たのは、幽寂な趣をたたえた草庵の庭に大きな蜜柑の木が植えられていて、枝もたわわに実がなっていたのだが、その回りを厳重に囲いがしてあったというのである。それを見て「この木なからしまばと覚えしか」と興覚めに思ったというのだ。
さて、兼好法師見たのは柑子の木であったが、俗塵にまみれている我が菜園でも結構厳重に柵で巡らしてある場所がある。こちらは西瓜である。
自分の畑は、田舎とは言え地方都市の近郊、かろうじて都心への通勤可能な地域であるから、回りは真新しい住宅で取り囲まれてしまった。その中にぽつんと取り残された猫の額ほどの土地を家庭菜園としているのだ。山深い閑雅な雰囲気など微塵もない。だから、畑の一部だけ柵とネットで囲いがしてあっても、誰一人気を止めることなどないのだが・・・。
さて、云うまで無いが、蜜柑の木を囲うのも、西瓜の周囲をネットで取り巻くのも、意図は同じ。盗まれまいとする、鳥獣の害を避けたいということだ。兼好法師はそれを、「執心」として嫌うのである。山奥の草庵であるから猿、いや熊かも、我が畑ではハクビシン、アライグマ、鴉、ヒヨドリそうして人、そんなものたちから、「果実」を奪われまいとしゃかりきになっている様を、兼好法師は興ざめというのだ。
実は、我が菜園は幾度となく被害に遭っている。
蜜柑もごそっと持って行かれた。ブロッコリーをすぱっと切られて何処やらに。無花果・柿は、鳥たちが突っつきに。西瓜も囓られてぽっかり穴が空いている。檸檬なんぞは多分人か。実際のことは分からないのだが、そういう目にあうと面白くはない。
防ぐには、囲うことしかできはしない。
でも、今年も西瓜の回りに杭を打ちながら、思ったのだが「この木なからしまばと覚えしか」と兼好さんは言った。突き詰めれば蜜柑の木なんぞがあるからいけないのだということになりかねない。それは、執着心のもとをこそ断てと云っているのだろうと。まあ、仏教の基本である。
「確かに畑の蜜柑が西瓜が荒らされまいか、盗まれまいかと思うのは、苦といえば苦であるからね。
でもさ、兼好さんよ、それは人が生きるリアルに打ち勝てる思想であろうかと。
自分は特段西瓜好きでないが、内のかみさんは西瓜に目がなくてねえ。
もちろん、その「執着」ってやつが、愛憎を生み、野望を育て、果ては戦争まで引き起こす「元凶」だと大抵の人は知っている、俺だって知っている。
兼好さんよ、本当に、人間というのは糞だね・・・。」とか、独り言である。
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