見出し画像

『ファーストラヴ』 written by 島本理生

声にならない声を、親や周りの大人にも届かなかった声を、すくいとってくれる人というのは、そんなにたくさんいるのだろうか?
救いの手を差し伸べてくれる人は、ただただ存在を認め肯定してくれる人は、誰の、どんな子供の側にも、本当にいるのだろうか?

主人公、聖山環菜。
自分に都合が悪いことがあると嘘をついてしまうことがある、と言う環菜。
自分を罪悪感のある人間にしてほしい、と言う環菜。
自分のせい、全部自分が悪い、父親に怒られるのも、母親が苦しんでいるのも、全部自分のせいだと言う環菜。

231ページより、環菜のセリフ。

こたえなきゃ。
大人の期待にこたえなきゃ。
自分の不快や恐怖なんてないことにして。

嫌だと思ってもそれを口にできず、いつだって飲み込んでいた。嘘をつくしかなかった。本心を自分自身で隠蔽しようとする環菜。

155ページより

「(略)なんともいえず不快で気持ちが悪くて、身の危険を感じて安心できない。常に緊張を覚えてしまう。そういう感覚が、成長して実際に性を経験することで、初めて名前を持つんです。あのときの視線は、そういう意味だったのかと」

環菜の苦しみを、絵画のモデルをやることにより、裸のモデルの男に寄り添い、日常的に複数の男子学生に見つめられ続け、言葉にできないような心の痛みを、
誰か、救ってあげることはできなかったのだろうか。

この話を読むのは3度目だ。だが読む度に環菜のような子供が世の中には実はたくさんいるのではないかという事実に、怖くなる。そして誰も救ってくれる人がいないまま死を選ぶ人の多さに、この社会の闇の一部を見たような気持ちになる。

では環菜の母親はどうだったのか。

"引き篭もりの子供の親は過剰に子供に気を向けすぎている"
というのはよく言われることらしい。
しかし物語の中の環菜の母親の言動は、ことごとく責任を回避するものだ。
環菜が自分の父親を殺したかもしれないという事実に対して、正面から向き合わず、環菜を否定し続け、自分たち親は悪くない、と逃げ続ける。

なぜだろうか?
この本で本当に恐ろしいのは、「環菜が抱える心の闇」ではなく、
「環菜の母親が抱える心の闇」だ。彼女の言動に潜む「巨大な闇」だ。

環菜の母親は、環菜の父親にいつも遠慮していた。文句も言わず彼のわがままに耐えてきていた。
その背景にあったのは、環菜の母親も腕を切っていたという事実だ。彼女もまた環菜と同様に、性的虐待や暴力を受けていた。

環菜の母親のような人は、大人になると今度は自ら過去と似たような境遇に入っていくことがあるそうだ。
環菜の母親は、環菜の腕の傷を見て「気持ち悪い」と言ったのだ。
でもそれは、"自分も同じように腕を切っていた"からだったのだ。
この事実を知った時、現実世界でもこのような出来事が.....負の連鎖が.....子供の頃に受けた傷を抱えたまま誰かの親となる人がいることが.....すごく怖くなった。

環菜の母親は、自分自身の暗い過去と対峙することを避けたくて環菜から目を背けていた。彼女の腕の傷を"それだけ辛い思いをし、耐え抜いた証だ"と教えてくれるような人が、彼女の周りにはいなかったのだ。

声にならない声は、今日もどこかで埋もれていく。
届かなかった叫びが届くのが、本人が死を選んだ時だとしたら、そこにあるのは悲しみよりも、それに気づいてあげられなかった周囲の人に対する、"怒り"のような気がしている。
彼らもまた、"気づかないフリ"をされ続けてきたのかもしれないのに。

環菜の心を殺したのは、外でもない周囲の人々。親、絵画に関わった学生、過去の恋人。彼女は最初から1人だった。彼女は自分のことを「価値のない人間」だと思っていた。いつだって父に許してもらえなければ家で生活することさえできなかった。

「愛情」だけで良かったのに。尊敬や信頼の念が込められた、「愛情」だけで良かったのに。それさえあれば環菜さんは、自分のことを嘘つきだなんて言わなかったかもしれないのに。自分の気持ちを押し込めて、本心を隠して、自分を否定し続けなかったかもしれないのに。

親が1番に子供にあげられるはずの「愛情」。それをもらえずに苦しむ子供の、涙にさえならない深い悲しみが見えたような気がした。

132ページより

「精神的な不安定さって年齢を重ねても残るっていうか、それは家庭環境が大きいものですよね。大人なんだから親は関係ないって、どこまで言い切れて、どこまで社会が認めて考慮すべきものなのかなって」

親が子供のために責任を取らなきゃいけない期間は、いつまでなのだろう。
精神的なことは、心のことは、ずっとずっと"親"が作り出してきた環境が元だからこそ、親の最期まで子供のことを見守っていくべきだと思うことは、間違っているのだろうか。

この物語では、弁護士の庵野迦葉と、臨床心理士の真壁由紀が、環菜の心に隠された「真実」を、見つけていく。

217ページより

今度は私たちが環菜の心のうちにある闇に名前をつけなくてはならない。遡って原因を突き止めることは、責任転嫁でもなければ、逃げでもない。今を変えるためには段階と整理が必要なのだ。見えないものに蓋をしたまま表面的には前を向いたようにふるまったって、背中に張り付いたものは支配し続ける。
なぜなら「今」は、今の中だけじゃなく、過去の中にもあるものだから。

庵野迦葉も、真壁由紀も、闇を抱えていた。過去の出来事や家庭環境で。忘れたつもりでも、やっぱり心のどこかに残っている。子供の頃に抱いた感情というのは、そういうものなのだろうか。それがマイナスの感情であればあるほどに。

この2人は同じ大学の学生だった。2人は互いのことを"深刻なことでも受け流してくれて、なんでも笑ってくれて。性別に関係なく必要とし合える相手"だと思っていた。

そんな誰かが、心の拠り所になる誰かが、黙って話を聞いてくれる誰かが、たわいもない話をして同じ時間を過ごしてくれる誰かが、環菜にも必要だったはずなのに。

そんな誰かを必要としている人は、この世界にもたくさんいるはずなのに。
もしかしたら自分も、心のどこかでそういう人を欲しているのかもしれない。

本当に怖いのは、"ひどいことだという自覚がない"ということだ。
叩かれて痣ができたとか、父親に性的暴行をされているとか、普段の会話の流れの中で、"ついで"みたいにそれを言う人がいることだ。
それをしている人がいることが問題だと、あなたは何も悪くないんだと、ただそれだけを言ってくれる人が、周りに誰もいないということだ。"自分が悪いせいだ"と思ってそれをされ続けている人がいることだ。

この本を読む度に考える。
届いてこない声の多さを。親から子への負の連鎖を。それを悲しんだり怒ったりしていいことだと感じていない人の多さを。見て見ぬ振りをする周囲の人の多さを。その人の存在をただただ肯定してくれる、愛情をくれる人が全くいないという事実を。

自分が見えている世界の狭さに辟易しながら、ただこういう事実があるということだけは....少なくとも心に留めておかなければならないと思いながら。

私は自分の過去の中にある「今」を、今でも抱えきれずにいるのかもしれない。