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豊かさ、とは

「東京貧困女子」

題名のインパクトは強烈だ。この本を読んだ率直な感想は、ただ1つ。

こんな現実が今の日本にあるのか。こんなにも子どもは不平等なのか。


「貧しい」という事実に気づくきっかけ

周りと自分を比べた時、あぁ自分だけが違うんだ。自分は他の人より、自由に使えるお金が少ないんだ。

そう気づかざるを得ない瞬間がある。

「経済格差」は意外と、幼い頃から感じるものだ。

私は私立理系大学生、お金をかけてもらっている身分だ。やはりちょっとした経済格差を感じることもある。

私のような上京組と元から都内のマンションに住んでいるような子とでは、やはり金銭感覚が全く違う。

奨学金で通っている子、バイトを必死にしてお金を稼いでいる子、親が全てお金を出してくれている子、毎日遊びまくってお金を使っている子、様々だ。

誰も口に出して言わないが、確かにそこには「経済格差」が存在している。


この前読んだ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」にも書いてあったが、周囲に似たような人たちがいる貧困よりも、自分だけが貧乏な貧困の方が本人にとっては苦しい。それは確実に言える。

「東京貧困女子」の中ではとある大学生が、部活中は周りに合わせて同じようにお金を使って遊んだり合宿費を払ったりしているが、そのお金は主に体を売って稼いだもの、という現実が書かれている。

水商売のようなことをして1度に大金を稼がなければ、この大学生が大学を卒業することは難しいのだ。自分自身を売って、精神をすり減らすしか道がないという現実は確かに存在するのだ。

彼女たちは、学び成長するために、体を売るのだ。お金が必要なのだ。



十分に教育費をもらえない貧困家庭の学生

貧困家庭において子供の教育に前向きなのは一部だけらしい。明日を生きるのに精一杯だからか。子供の教育に興味がないだけか。

「親は誰もが子供の未来を案じている、といった性善説は現実的ではない」とこの本には書かれている。

確かにそうなのかもしれない。例えば奨学金をもらってでも大学で学びたいという子供がいたとして、親が認めてくれなければ大学へ行くことはやはり難しい。奨学金だけではかなり生活は厳しいし、当然働くことにかなり時間を費やさなければならない。

どんなに支援の仕組みが整っていたとしても、親が適切な判断をして子供の教育環境を適切に整えることができるかどうかは、定かではないだろう。



支援制度は本当に「支援」なのか?

日本学生支援機構の奨学金は、給付されるものではない。あくまで「返済」しなければならないものだ。

今や日本の大学生の多くが借金を抱えた状態で大学を卒業し、社会に出て働かなければならないという現実がある。

大学生は簡単に、明るい未来を想像することができるのだろうか?


これは本当に適切な支援なのだろうか?給付型を増やすことはできないのだろうか?

もちろん金銭的支援だけでは解決しない問題も多い。子供の教育に興味のない親を超えて、子供が自身の学びに関して相談できる相手は絶対に必要なのだ。

学ぶかどうかは、子供の意思で決められなければならないと思う。

自己決定が、大学に行きたいという選択が、子供の意思が尊重されなければならない。



こういう話を聞くといつだって思うことがある。

子供の人生の多くは、親によって決まってしまうのかもしれない。

親に暴力や性的虐待を受けた人の精神的傷はなかなか消えない。親が嫌いだ、という反発の気持ちは、時に一生続く。学校でいじめられているのに親は助けてくれない、これが信頼の低下につながっていく。

大学に行きたいのに、お金がなくて行けない。自分の稼ぎだけでは、体を売って大金を得なければ生きていけない。遊んでいる親に逆にお金を吸い取られる。

小さい頃に育児放棄をされ、人の愛し方や愛され方がわからない。信頼関係の築き方がわからない。

これらを経験するのが幼い頃であればあるほど、記憶は残るし傷は一生消えない。



子供にも、この世に生きている人間には誰でも、自分の人生を自分で選択できる権利があるはずだ。


学びたいと思えば何の苦労もせず学ぶことができる環境がある、本当はそれが当たり前でなければならないはずだ。

そんな当たり前の環境が、「平和」だと言われている日本にはない。

お金がなくて明日を生きるのが精一杯の学生の存在が、まるでなかったかのように埋もれている。



彼らは「ゆたかさ」を何だと思っているのか

何もかもを諦めた。未来が想像できない。何十年後かの自分が想像できない。

大学生の間は体を売ったりパパ活をしたりして稼げるけれど、社会に出て定職についてしまえばそれは厳しい。定職につく方がむしろ収入が減ってしまって、奨学金を返すのが厳しい。

明るい未来を想像できない子供たちに、明るい未来はもうないのだろうか。

明るい未来を想像して何とか頑張っている学生が、お金の心配がなく心安らかに過ごせる未来は、あるのだろうか。



私は豊かだ。どうしようもなく豊かだ。毎日困ることなんてほとんどない。

でもこの「豊かさ」はきっと「豊かさ+α 」なのだ。豊かな環境に置かれた上でもなお、さらなる豊かさを求めてしまうのだ。

ほとんど綺麗な世界しか知らずに、生きてきているのだ。



「東京貧困女子」。彼らにとっての「豊かさ」とは何だろう。

自分が同じ立場になることができない以上、この問題に答えは出せない。



ただ1つ、綺麗事は書かずに最後に言いたいことがある。


「東京貧困女子」の存在を知って、彼女たちのことを「かわいそう」などと言う人の心は、決して豊かではないだろう。


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