見出し画像

何者かになりたいと願う

今日は昨日まで夏の気候だったのが信じられないくらい秋の気候だ。窓から流れ込む涼しい風が心地良くて、うたた寝どころかだいぶ昼寝をしてしまった。"昼寝"という睡眠時間はなんだかとても贅沢に感じる一方で、寝すぎた時の時間を無駄にしてしまったな...というあのなんとも言えない虚しさが少し恐ろしい。暑くて寝苦しい夏はもう終わったのだろうか。まだもう少し、畳の上で大の字に寝転がっていたい。


🔁


中学後半だっただろうか、それとも高校前半だったろうか。明確に覚えているわけではないが、「モラトリアム人間」なんていうワードが流行ったりした。なんとなく思春期というか年頃の若者というかそういう時期って、「自分は何者でもないのではないか」とか、「何者かになりたい」とか考える自分というのがいたような気がする。

何者でもないような自分から抜け出したくて、何者かになりたくて、がむしゃらにあがいてる時期というか、闇雲にもがいている時期というものが 誰しもあったりするのではないか。そういう経験はないだろうか。

なぜこういう年齢で、この時期に、「何者かになりたい」と願うのだろう。「何者でもない」というのは一体どういうことなのだろう。子供から大人になろうとしているのだろうか。一皮むけようとしているのだろうか。他者に認められることをより一層必要としているのだろうか。

「何者かになる」ことによって生きる意味を見出そうとしているのだろうか。
何か一芸に秀でている人が私は羨ましい。堂々と特技と言えるようなものがあるのは羨ましいし、顔の整い具合では周りの人にはなかなか負けないという美人な人も羨ましい。何かひとつ「自分は自分の"これ"に自信がある」というものを堂々と言える人が羨ましい。

「何者かになる」ことの1つの要素は、私にとっては「〇〇といえばあなた」という風に存在を認められることだ。その物事に関しては"何者"かになれるということだ。これは案外難しいような気がする。何かが急に得意になったり、何かで急に目立つようになったりなんて難しい。迷路の真ん中で取り残されているような人間が、突然道が拓けて別の世界に到達したなんていうことはない。そんなには。


「何者でもない」ことを言うのは簡単な気がするのに、「何者かである」ということを文章で説明するための語彙力が私には足りていない。「ない」ものは「ない」のだ。本当に何も「ない」。
「何者かになる」ということは「自分の存在意義を他者に認めてもらえる」ということだろうか。自分がその場所で必要とされている、自分が役に立っている、もっといえばその環境の中で自分の代わりになれる人間がいない....ということだろうか。

本来なら自分に取って代わることができる人間なんて1人もいないはずで、「あなたの代わりなんていないんだよ」っていうセリフはテレビや小説でも時折見かけることがある。
だけど現実は全然そんなことはなくて、自分の場所なんて簡単に誰かに奪われてしまうし、自分の代わりなんて山ほどいるし、自分の存在価値を自分で証明するなんてことは本当に難しいことのように思える。

だから何なんだっていう話だが、「何者かであろうとする」ということは難しい。そもそも「何者かである」ことがどういうことかを定義するのが難しいから。経験や知識が乏しい中で、思考の迷路に入り込んでしまっている中で、何者かになろうともがいている中で、視野は狭くなってしまいがちである。不意に周りの人間が全員敵に見えたりして、周りからの視線に耐えられない時があったりして。


「何者かになる」ことがどういうことかよくわからないのにも関わらず、私自身も何者かになりたいと願っている。何者でもない自分がどこかで許せなくて、何者でもない自分なんか消えても明日はいつものようにやってくるという事実に、ほんの少し脅かされたりするものだ。何者でもないまま生き続けることが、なんだか心もとなく感じるのだ。



「何者でもない」人間しかむしろこの世には存在しないかもしれないのに。