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星辰の孔子

 それは、星降る夜だった。
 古代中国、魯(ろ)の国の孔子は独り、夜空を見上げていた。
 隣に女の童がいる。どうやら、人ではないようだ。
 「……先生、どうしてお星様は輝いているの?」
 女の童が尋ねると、孔子は答えた。
 「それは皆で、この星を励ましているからだよ」
 女の童は、ちょっと小首を傾げた。
 「……この星は寂しいの?」
 孔子は優しく微笑んだ。
 「もしかしたら、そうかもしれないね――」
 再び空を見上げる。数え切れない星々が輝く。
 「――独りで輝いていても、寂しいだろう?」
 「……だから皆で輝いているんだね」
 女の童がそう答えると、孔子は頷いた。
 「……でもこの星はどんな姿をしているの?」
 「この星は青くて、美しい水の滴なんだよ」
 孔子は遠くを見た。夜の地平線だ。まだ暗い。
 「……青いんだ。どうして?」
 「海があるからだよ」
 女の童は海を知っている。海は青い。
 「この星は、青と深い緑で覆われている。命の色だ」
 女の童の脳裡に、ありありと青い星が見えてきた。
 「……先生、私たち、飛んでいる」
 飛天のように、認識だけ、地を離れて、飛んでいる。
 「私はこの星の心を掴んだ。さらにその奥も――」
 孔子の視線が、天をぐるりと一巡する。
 「――運命の果て、遠い過去から遠い未来まで見た」
 「……先生、怖い」
 女の童は認識の限界にぶつかった。真っ暗になって、失速する。
 「ああ、悪い。怖い思いをさせてしまったね」
 ふっと一瞬で、元の自分に戻った。地に足がついた。
 「……先生と目を合わせていると、夜空に投げ出されたみたいになる」
 一瞬、自分の重さを失って、満天の星空が見えるのだ。
 「そう言えば、童は天帝の子だったね。私と繋がるか」
 いや、人でも繋がるかもしれない。先生の目は普通じゃない。
 「……あの世界は何ですか?星空の世界?」
 「宇宙と言うんだよ」
 女の童は「宇宙」と、口の中で言葉を繰り返した。
 「……人の世界ではない?」
 女の童が、ちょっと怖そうに尋ねると、孔子は微笑んだ。
 「いや、人は夜見る夢で、宇宙にまで行けるんだよ」
 「……宇宙の夢?」
 「心掛けが良ければ、普通の人でも行ける」
 女の童はちょっと考えた。無理だ。できっこない。
 「夢で星の船に、招待されないといけないけどね」
 「……星の船?」
 「そう。星の海を渡る船があるんだ」
 「……それに招待されるの?」
 女の童は小首を傾げた。
 「善行を為した人だけに与えられるご褒美だよ」
 孔子は、女の童に向かってそっと微笑んだ。
 「……どんなご褒美なの?」
 「夢で星の船に招待された人は変わる。どんな人でも変わる」
 孔子はそう答えた。
 「……その星の船に乗って、どこか行くの?」
 「普通の人は、星の船から、この星を眺めるのが限界だ」
 「……じゃあ、特別な人は?」
 「星辰の門を潜って、星の船で旅ができる」
 女の童は目を輝かせた。それは凄い。どんな世界か。
 「……先生はできるの?」
 「私は星の船さえ要らない」
 それは、特別の特別という意味だろうか。
 「……もしかして先生自身が、星辰の門なの?」
 孔子は笑った。明るい。
 「それは面白いね。そうかも知れない」
 そろそろ夜が明ける。朝が来る。弟子たちも起きる頃だ。

 「……先生、今誰かと話をしていませんでしたか?」
 朝一番、子路はやってくるなり、孔子に尋ねた。
 「さてな。それよりも昨日の話の続きだが……」
 女の童は姿を消している。姿隠しだ。人の目には見えない。
 「……やはり気配がします。誰かいませんか?」
 子路は鋭い。見えていない筈なのに、気配を気取られた。
 「獣でもいたんだろう」
 孔子が目配せをした。女の童は頷く。
 少し離れよう。あまり近くにいるとバレてしまう。
 それから二人は、仁義礼智について、語り合った。
 非常に現実的な会話だった。誰が聞いても分かる。
 仕事の話をしているのだから、当たり前だ。
 だが後世に残る。書物になって伝わる。
 女の童は思った。これは昼の孔子だ。
 だが女の童は知っている。夜の孔子を。
 真夜中は別の顔という訳だ。
 あの孔子を知る者は、弟子にはいない。
 いや、弟子たちも、孔子と目を合わさない。
 先生の目を見てはいけないからではない。
 見れないのだ。吸い込まれて、星空に落ちる。
 先生は昼間、怪力乱心を語らない。
 だが先生そのものが、怪力乱心なのだ。
 当たり前過ぎて、語るまでもないのだ。
 だが夜になると、門が開かれる。星辰の孔子だ。

 ある日、子路は言った。
 「……先生、私は衛(えい)に行こうかと思います」
 孔子は沈黙している。
 「……如何でしょうか?」
 「任官の話か?」
 「……はい、そうです」
 孔子は、暫く考えてから言った。
 「分かった。お前なら上手くやれる。頑張るんだぞ」
 子路は嬉しそうに頷いている。だが孔子は言った。
 「塩漬け肉には気を付けろ」
 子路は、意味が分からないという顔をしていた。
 
 夜になると、女の童は姿を現した。孔子は星空を見ている。
 「……もしかして、子路は死ぬのですか?」
 「ああ、そうだ」
 「……もしかして、塩漬け肉になるのですか?」
 「ああ、そうだ」
 「……警告はされないのですか?」
 「ああ、そうだ」
 「……意味がある事なんですよね?」
 「ああ、そうだ」
 どこか悲しげな響きがあった。
 「……優秀なお弟子さんがいなくなると、寂しいですね」
 孔子は何も答えなかった。顔回も亡くなって久しい。
 「……先生たちの活動が、後世に伝わるといいですね」
 全て昼間の話だ。夜の話ではない。仕事の話だ。
 「弟子たちが、道を開いてくれる」
 無数に枝分かれしていく運命の岐路が見えた。
 それはこの大陸の外にまで広がっている。極東の島国が見えた。
 「……先生の教えは現実的だから、地上に残りますよ」
 全て本当に深い処から出て来た言葉だ。その背景はこの星空にある。
 「悪用もされるがね」
 政治の統治術として、これ以上に便利な教えはない。
 為政者たちは、都合よく解釈して、教えを使うだろう。
 だが先生には、そんな事はとっくに分かっていたし、興味なさそうだ。
 「地上から去る時が来たようだ」
 夜空を埋め尽くす赤、青、黄、橙、白の光。
 飛んでいる。動いている。とんでもない数の空飛ぶ円盤、星の船だ。
 「そろそろ私も星辰の世界に帰るよ」
 その夜、孔子は肉体を置いて立ち去った。弟子たちは三年喪に服した。

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺029

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