見出し画像

クサンティッペ、ソクラテスの思い出

 ソクラテスが家に帰って来た。裁判の判決を聞いた。
 「……それであなた、無罪の筈なのに、有罪になったの?」
 クサンティッペが呆れると、ソクラテスは即座に答えた。
 「じゃあ、私が有罪だったら、良かったかね?」
 沈黙が訪れた。ソクラテスは泰然自若としている。
 「……あなた、不当に殺されようとしているのよ?」
 ソクラテスは裁判で死刑判決が出た。確定だ。覆らない。
 「では私は、正当に殺されれば、良いかね?」
 また皮肉を言っている。ダメだ。この人は。これだから敵を作る。
 「……それでこの後、どうするのですか?」
 勝訴を願って用意した、古代ギリシャ式の食事が冷めていく。
 「死刑囚だからこれから牢に入る。ちょっと立ち寄っただけだ」
 クサンティッペは嘆息した。ダメだ。この人は。通常運転だ。
 「……お父さん、何で死刑になったの?」
 クサンティッペの子ランプロクレスが尋ねた。
 「アテナイに新規の神を導入し、若者を惑わしたと彼らは言っている」
 「……ダイモンね」
 昔からこの人には神霊がいる。親しい人は皆知っている。霊能者だ。
 「……してはいけない事だけ強く伝えてくる例の声?」
 少年ランプロクレスが尋ねると、父ソクラテスは頷いた。
 「そうだ。ダイモンが何かを勧めた事はない。禁止だけだ」
 それで何で、瀆神(とくしん)行為に当たるのか分からない。
 「……それであなた、裁判で一体何を話したの?」
 クサンティッペはそれが気になる。
 「訊かれた事を答えただけだ。反論は禁じられていた」
 「……え?誰に禁じられていたの?」
 「ダイモンだよ」
 ソクラテスがそう答えると、再び沈黙が訪れた。
 「……いや、意味が分からない。ダイモンは守ってくれないの?」
 少年ランプロクレスがたまらず、尋ねた。
 「ゼウスに誓って――」
 ソクラテスは厳かに言った。
 「――ダイモンはいつも私を悪の道から遠ざける」
 「……いやいや、お父さん、死刑になっているよ」
 少年ランプロクレスがたまらず、指摘すると、ソクラテスは答えた。
 「別にそれは大した問題ではない。悪の道に入るよりはね」
 相変わらずだった。この人は変わらない。昔からこうだ。
 それで裁判で死刑になる事と、悪の道に入る事の比較衡量をするのだ。
 そしていつもの問答法で、どちらかより善で、より悪か明らかにする。
 結果、より善を選び、より悪を遠ざける。通常運転だ。
 「……あなた!死刑判決が出たって本当?」
 若い女が飛び込んできた。ソクラテスの二人目の妻ミュルトだ。
 「……ウチにはまだ小さい子が二人もいるのよ!」
 ソクラテスの子ソプロニスコス、メネクセノスがいる。まだ幼い。
 「……早く逃げて下さい!この子たちのためにも!」
 幼い二人の子まで連れて来た。ちょっと迷惑だ。
 「困ったらクリトンやプラトンに相談したまえ」
 ソクラテスはそう答えた。ああ、この人は死ぬつもりなんだ。
 「……あなた、何でよりによってあんなヘボ詩人なんかに……」
 「メレトス君の事かい?」
 ソクラテスは、ちょっと楽しそうに言った。
 「メレトス君の詩は、私の裁判と関係がないから安心したまえ」
 一体誰がどう安心するのかよく分からないが、それはそうだ。
 「……でもアニュトスの差し金なんでしょう?」
 クサンティッペも口を挟んだ。アテナイの政治家だ。
 「アニュトス君にも一言、言っておいたよ」
 ソクラテスは特に気にした風でもない感じで、肩を竦めた。
 それだ。余計な一言を言っている。なぜダイモンは禁じない?
 「……酒乱のアルキビアデスが全部悪いのよ!」
 ミュルトが突然叫んだ。アルキビアデスはソクラテスの弟子だ。
 「シチリア遠征の事かい?」(注121)
 アテナイはアルキビアデスの煽動に乗り、遠征に出て全滅した。
 「犬に誓って――」
 ソクラテスは厳かに言った。
 「――あれはアテナイ市民が決めた事だよ」
 それはそうだ。あの時、市民が挙って賛成した。熱狂した。
 「……でもあんな破滅的な結果は在り得ない!」
 ミュルトは叫んだ。アルキビアデスは追放されて死んだ。
 「……クリティアスも、ブタのようで、良くなかったわね」
 クサンティッペは言った。彼もソクラテスの弟子だ。
 「前政権は評判が悪かったからね」
 彼はアテナイ30人僭主政権の一員で、シチリア遠征を企てた。
 「……とにかくあの二人が悪いのよ!」
 ミュルトがそう言うと、ソクラテスはクサンティッペを見た。
 「それ見た事か。やっぱり私は有罪だよ」
 弟子の不明は師の不明か?いや、本人の問題だ。
 「……それであなた、どうするつもりですか?」
 クサンティッペはソクラテスを見た。
 「私は死刑囚なのだから、死ななければならない」
 それは理屈だ。牢屋の扉は開いている。クリトンが開ける。
 「……それはあなたが望んだ事?」
 少なくとも、今回ダイモンは止めていないようだ。
 「そうだ」
 クサンティッペは暫くの間、ソクラテスを見ていた。
 横でミュルトがわっと泣いた。迷惑だ。鬱陶しい。
 「……ホント、あなたって、神のみぞ知るね」
 ソクラテスは、いかなるソフィストにも、言論で負けた事がない。
 だがよりによって、裁判では勝てなかった。言論で負けたのか?
 「……わざと死のうとしている?疲れた?」
 ソクラテスは死の床に就こうとしている。
 「そういう訳ではない。私は人として分を弁えている」
 散々、人と問答法でやりあった。その結果が今押し寄せて来た。
 「いつか死すべき人間は終わりが来る。己の節度を守るべきだ」
 裁判で勝ってもいい事がないと思ったのか。退き際だったのか。
 「人間にはヌース(理性)があると言っている連中がいるが――」
 それはソフィストではなかったような気がする。
 「――死すべき人間には限界がある。分からない事はある」
 ソクラテスは、デルフォイの神託で、誰よりも賢いと言われた。
 「……あなたは、いつも分からないから教えてくれと言って――」
 クサンティッペは、相手を打ち負かす問答法を思い出した。
 「――実は彼らも分かっていなくて、その無知ぶりを暴く」
 少年ランプロクレスも続いた。
 「……でもお父さんは、少なくとも、それを知らない事を知っていた」
 無知の知という奴だ。だから人より賢い。これは首尾一貫している。
 「私も知っている事はあるさ。だがそれは多くない」
 ソクラテスがそう答えると、クサンティッペは言った。
 「……神々に関する事ね」
 実はかなり不思議な話をしている。エルの神話など一部に過ぎない。
 「彼らは私がアテナイに新規の神を導入したと言っているからな」
 ソクラテスはそううそぶいた。
 「……でもあの連中、神々を敬っていないよ。形だけだ」
 少年ランプロクレスは言った。クサンティッペも言った。
 「……実は神々を信じていないんじゃない?」
 まれにそう高言する者もいるが、流石に少ない。
 「神々が目に見ないから信じないと言っている人たちは――」
 ソクラテスは言った。
 「――自分の心も目に見えない事は忘れている」
 皆は頷いた。そうなのだ。本当の自分は見えないのだ。
 「……心は、魂は、存在するんだね?」
 少年ランプロクレスは言った。ソクラテスは頷いた。
 「夜夢を見る時、肉の目を閉ざして、心の目で夢を見ている」
 見ている者は存在する。確かに存在する。心は存在するのだ。
 「……お父さんの言う通りだよ。やっぱり死んじゃだめだ」
 少年ランプロクレスがそう言うと、ミュルトも言った。
 「……あなた、考え直して、私たちを置いて行かないで」
 確かにこの人は、こんな死に方をするべき人ではない。
 「……どちらにしても、あなたの話を伝える必要がある」
 クサンティッペは言った。ソクラテスの対話禄は人類の宝だ。
 「そろそろ行かないといけない。あとは任せたよ」
 ソクラテスはそう言った。クサンティッペ、ソクラテスの思い出だった。

注121  シケリア遠征 紀元前415年 ペロポネソス戦争(BC431~404)の転換点

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺028

四聖+1 仏の顔も三度まで、釈迦族殲滅戦

四聖+1 最後の晩餐、嫌われたイエス

四聖+1 星辰の孔子

四聖+1 カントとスェーデンボルグ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?