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感情論と論理/日本人の苦手な論理的思考を身につける


感情論と論理(論理的思考)。


日本人は論理的思考が元来苦手な民族である。
と、いうこと自体は、これまで多くの研究者が述べてきたところであるので、ここでは詳しく言及しない。


議論において要求されるのは、当然のことながら感情論ではなく、「一貫した論理性」である。
さらにその上での「現実妥当性」が検討されて、どの論を選択するべきかが問われることとなる。


議論するとはそういうことである。

ところが、論理的であるとはどういうものかといったようなことを習うことすらなく、また、論理を要請するような歴史や文化をもたない社会であるからして、私たち多くの日本人は、自分たち自身が、結果として激しく感情論を展開していることに無自覚なのである。



感情論は、ただの独りよがりの感情の吹き上がりに過ぎない。感情のぶつけ合いは、自我、我欲のぶつかり合いに過ぎず、とてもではないが、議論とは呼べない。


感情論になるとわかりやすいのは、
議論が「人格否定」「人格攻撃」となってしまうところにある。


これは、論理を知るものには考えられないことだ。

その人が論理的に述べる内容と、人格とは、はっきりと切り分けられるべきであるが、そもそも論理を知らない人にはそのことが理解できない。


「ああいうことをいう奴はきらい」
「こんなことをいうのだからロクな奴ではない」


そう感情で切り捨ててしまう自分自身こそが、ロクな奴、ではないわけなのだが・・・。当の本人は気付かないのである。


まったくもって、日本人的であると言わざるを得ないが、それほどに、日本人は、論理的思考から縁遠いことがわかる。


論理とは何か、論理的であるとはどういうことか、まずは、多くの方々にそれらを学ぶ機会をもってもらいたいと願っている。


(少なくとも、僕のところではそれを子どもたちが学ぶことができるのだが、時間は限られてしまうのが惜しいところだ)


論理を知り、まっとうな議論ができること。


これなしに、まちの存続もなければ、市民としてのまともなふるまいもない。


さらに、個々の勉学や仕事においても、非常に重要なファクターである。


論理的であるとはどういうことか。
ぜひ、学ぶ機会をみなさんにもっていただきたいと願っている。


(おわり)



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