マガジンのカバー画像

父と暮らす。この80年で変わったもの、変わり得ないもの。

14
「介護」と言う言葉は、過程という「経済の単位」が単なる「消費の単位」へと変質した1980年代に萌芽を見ることが出来る。「三丁目の夕日」ではないが失ったものを忘れないことで、もっと… もっと読む
運営しているクリエイター

2020年7月の記事一覧

「食育」が気持ち悪いわけ:給食ハラスメント:誰でも健康になる食事と言う妄想

「食育」が気持ち悪いわけ:給食ハラスメント:誰でも健康になる食事と言う妄想

食育という言葉がいつ頃生まれたのだろうか?家でお弁当を作って学校に持ってきていた時代にはそんなものはなかった。やがて共働きで家で食事を作るおばあちゃんもいない家庭が増えて学校で給食を作るようになった。

ぼくが小さい頃は各学校に給食室という施設があって、給食のおばちゃんが食事を作ってくれていた。やがて、センター給食が始まる。この時期の議論は今はもう考えられもしない(そのうち論じます)。

センター

もっとみる
父と暮らす:認知症は幸せなのかもしれない。「記憶が失われること」と「心が狂うこと」とは違う。自分を知っている人がいなくなるという孤独。心を狂わせない食事。

父と暮らす:認知症は幸せなのかもしれない。「記憶が失われること」と「心が狂うこと」とは違う。自分を知っている人がいなくなるという孤独。心を狂わせない食事。

年取って辛いことはなんだと聞かれた老人が「若い頃を覚えていることだ」と映画「ストレイト・ストーリー」で主人公が応える。

なぜ、老人にとって記憶が失われることが悪いことなのだろうか?

僕は悪いことではないと思う。もう十分頑張ったのだ。静かに暮らすことがふさわしいじゃないか。

人が覚えている必要のないこと(覚えていると都合の悪いこと)を忘れるのは当たり前の反応なのだと考えるほうが良い。黒歴史は忘

もっとみる
父と暮らす:「父との食事」家族という距離の生まれる理由。

父と暮らす:「父との食事」家族という距離の生まれる理由。

「綺麗、汚い」と言う感覚はなぜ、どこで生じるのだろう?随分考えさせられた。

年寄の食事は面倒だ。こういうのを上げ膳下げ膳というのだろう。冷凍された食事のパックを試したりもした(が僕が気に入らなかった)。父はとにかく文句を言わなかった。昼間は寝ていることが多く、朝も何時に来るかは決まっていなかった。夕食を食べに来て1時間位食べてから帰るのだった。酒もよく飲んだ。亡くなる直前まで飲んでいたのは嬉しか

もっとみる
父と暮らす:妻との諍いの50%は両親、25%は子供、残りは僕の給料のやすさ。新しい「家政学」

父と暮らす:妻との諍いの50%は両親、25%は子供、残りは僕の給料のやすさ。新しい「家政学」

両親と顔を合わせれば、子供いつ出来るかとそんな話題になった。次男が生まれるの時は僕が独立て間もなくて、2人目の子供はいらないと言った。妻は僕の両親と10年話をしなかった。こういう話はよく聞く。

チョット考えてっもらいたい。もし、「年金を払っていない人」がいたらどう思う?父母の世代は子供が老後の世話をしてくれたのだ。つまり子供の数は今で言えば年金の加入と同じなのだ。いやもっと重要だった。

僕らは

もっとみる
父と暮らす:2014年の父母との和解

父と暮らす:2014年の父母との和解

家族で共に生きるとは、変わってしまったお互いの間で新しい関係を築き、ともに生きること。

この頃から、母の具合は悪くなり、大変な時期になる。何種類もの薬を処方され(数年前からであった)、身体の状態は悪くなっていく。自分では料理を作れなくなり、一緒に話をしていても昨日まで覚えていたことを忘れる、何度も鍋を焦がした、風呂もわかせない。毎日着替えを探す。ほぼ毎日つきっきりで暮らすことになる。父は車の運転

もっとみる