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「食育」が気持ち悪いわけ:給食ハラスメント:誰でも健康になる食事と言う妄想

食育という言葉がいつ頃生まれたのだろうか?家でお弁当を作って学校に持ってきていた時代にはそんなものはなかった。やがて共働きで家で食事を作るおばあちゃんもいない家庭が増えて学校で給食を作るようになった。

ぼくが小さい頃は各学校に給食室という施設があって、給食のおばちゃんが食事を作ってくれていた。やがて、センター給食が始まる。この時期の議論は今はもう考えられもしない(そのうち論じます)。

センター給食の普及は「政治的に正しい栄養学」を必要とした。つまり、「誰でも健康になる食事」があるという思い込みだ。そして、身長と運動量で食べる量が決められたのだ。

センター給食にまでたどる流れは、家庭で食事を作れなくなっていくプロセスでもあった(以前は食事は家庭でしか作れなかった=売っていなかった)。核家族の共働きで朝から晩まで働かなければ家計が成り立たなくなてしまったのだ。家で食事を作る人が消えた。同時に、「家」という女性にとってはハラスメントの象徴の場から自由になったのだ。まあ、会社で思い切りセクハラ・パワハラされるのだが、少なくとも家庭では夫とのセックスも拒否できるし、ぶたれれば警察が出張ってくれる。まあ、夫はセックス拒否されたらどうしたら良いか困るよねえ。結婚が式の当日まで顔も見たことない時代は、嫌でも我慢してセックスしていただろう。なにせ家というのが、企業(農家や商店)であって、生活の全てだったのだから。時代の背景をっ忘れてはならない。

家庭の中で互いの欲望を満足させることの難しさは今度書きます。セックスも食事も、その欲望を満足させるターゲットは千差万別、瞬間ごとに変わるし、その渇望はやむことはない。どちらにしてもマイクロバイオームが一枚噛んでいる

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考えても見てもらいたい、小学校の低学年の頃の「一年の差」は恐ろしく大きい。それを全く同じに扱うのだ。そして各個人の差を無いものとして給食は残さず食べろと言われる。

無論、教育というのは侵襲的(注)である。本人が望むものをそのまま与えることは出来ない。現実の社会は少ないリソースの取り合いである。コミュニティの生み出す価値をいかに分配するかが「いじめ・パワハラ・セクハラ(セックスという価値を手に入れるパワハラ)」の起源である。そしてまさに学校は家庭を模しているのだ。家庭がいじめの大本だということです。

教室では同様に先生がいじめの元凶だ(この話はまた今度)。

人は皆違う

私達は姿形が同じ様に見えても、その内面はみな違う。身体というコロニーに共生している細胞生命たちはそれぞれの環境に適応するために全く異なった代謝系を持つ。

そしてその違っている代謝系が、食事の好みを決める。最近はアレルギーが有ると異なった食事が許されるが、そんなことはほんの最近のことだ。

では「アレルギーという疾患」が無ければ、皆同じものを食うべきなのだろうか?それは違う。それそれの身体というコロニーに生きる生命は、自分にピッタリのものを求める。そしてそれはみな違うのだ。

教育というのは、社会を均一に維持しようとする。だから、その振れ幅から外れた「どんぐり」は排除されるのだ。

「病気(AD|HD・学習障害)」か「犯罪者(ヤンキー)」にしてしまう。そして、病気にはよく効く薬があり、犯罪者はドロップアウトの道が待っている。運良く学校を卒業しても、親にコネが有るか金持ちであるかしなければ「企業」という『自分の努力が人の幸せに結びつく「学校(上の言うことにはぜたい服従)」』に入学するのだ。

このゲーム(上の言うことには絶対服従ゲーム=奴隷ゲーム)を止めるには「病気」になるか「犯罪者」になるかしか無い。

なぜ、かつて家庭でのハラスメントは許されるのか?

学校も家庭も、本人が望まないものを食べさせる事がハラスメントだたとしたら、どうして「過去の家庭(家庭で食事を作る時代)では許されたのだろうか?

これは、家庭が循環して再生しているからだ。父親はやがてお爺さんになり、子供は父親になり、お爺さんの世話をした。「食事」と言う共通の価値を持っていたのだ。どんな物を老人は食べ、元気に寿命を全うしたかを記憶している。子供が何を食べて病気したかを親は忘れない。食事を作る親の責任は重いが、家族を失うリスクも共にあった。自分も食べるからまさに命がけである。

だから、「家庭で料理を作るほかない時代=お店で食事を売っていない時代」は子供も文句を言えなかった。そして、ともに生きていたのだ。

学校の先生は何年かごとに転任する。教育の質を均一にするためかもしれないが、もし、一生その土地で先生をしていたらどうだろうか?やがて大人になった生徒が隣で酒のんで絡んでくるのだ。エコヒイキなど出来やしまい(笑)。僕は先生は一生そこいたほうが良いと思う。そうすることで先生自身も学ぶことも多いはずだ。今の制度は文部省の言うことを正しいと強制する役人だ。無論いい人も居ると思いますよ、ソレナリにね、けど文部省のいう事聞かないと給料下げられるんだもの、無理しなくともいいよ。そして社会が腐っていく原因は「親と教師」半分半分だ。やがて子供も大人になって世の中を腐らせる。子供を戦争にやった反省から君が代や日の丸に対しての忌避は組織の中に維持されていたが、忌避することで生涯年収が大きく変わるという理由で日教組も組合員に着席を強制しない。僕は入学式も卒業式も妻に出席を禁じられ、一回も行ったことがない。

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今に始まっったことではないが.....

勘違いしてはいけないのだが、こういう「選別の制度」は人の社会の始まりから延々続いているのだ。奴隷制度、宗教や巨大遺跡の文明。私達は同じことを繰り返しているのだ。コミュニティで価値をどう配分するかというゲームが教育の長い階段だと言える。やがて大学に進み卒業した時に一握りの人間が富を多く受け取るのだ。残念ながらこのゲームは公平ではない。

そして人がテロに走るのは公平でないことに気がついたときである。こんな社会はテロで滅びる他ない。まあ、僕は何も持っていないから良いけどね。

商品化された食事の出現

しかし、「商品化された食事」と言う存在が現れたのは、人類の歴史始まって以来のような気がする。

おまけにこの「商品化された食事」というやつは、多くの病気を生む。そして医学は予防という名目で検査値を下げる薬を売り、治療という名目で同じような手術を繰り返して、何種類もの薬を売る。二度美味しいのだ。

けどね、お医者さんや製薬会社の方々、アンタ方もいずれ通る道だ。

侵襲

治療において、何らかの苦痛を与えることを「侵襲」という。これは、「治療」が終わり、元に戻れて、なおかつ患者が望む場合に許される(と思う)。その治療の価値(アウトカム)を信じない人に行った場合は許されはしない。輸血を拒否する宗教の患者に対しては「本人が拒否する」ならば行うことは医療の倫理に逆らうことなのだ。信教の自由は守られなければならない。

なぜ生命は死ぬのか

今僕の家には子供が一緒に住んでいる。けど、僕の料理は嫌う。自分でかってに作ってたべる。食事というのは恐ろしいハラスメントなのだ。親の持っている価値に従わせようとすることは間違えなのか?いつも考える。しかし、遠くの会社に朝早く行って夜遅く帰る生活だ。もはや異なった世界に向き合って居るのだ。食事も含めて自分自身で向き合う他ない。

時代は変わり環境は変る。そして環境に適応するために変化していくのだ。死は新たな生命がより良く世界に適応するためにある。

かつては、家庭が商店や農家であった。小さい枠の中に人生のすべてがあった。その枠の中に食事もあり、その価値が変わることはなかった。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。