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八月や六日九日十五日(2の2)【エッセイ】六〇〇〇字

(長いよぉ~。でも10分だけ、ちょうだい…💦^^)

 戦後5年目に生まれた「戦争を知らない子ども」のワタクシ。その5年間に生まれた我々を団塊の世代と言うが、あと10年もすれば、ほとんどの者はオサラバ。その10年で戦争が起きなければ、(民間人が巻き込まれるような)対外戦争を経験しないで死んでいく世代という、史上画期的な出来事になる。なんとありがたいことか。しかし、そのあと、戦争なんか起きたりしても、わたしゃ、知らんよ。はははは。

戦争なんて起きないと思っているだろう。 
そうだよなあ。
戦争なんてリアルで見たことないしなあ。
だけど、起きてしまったら終わりだよ。
ウクライナ、ガザにキミがいたら、
(いや、ロシアやイスラエルであっても)
どうなるか、
想像力とまで言わなくても、
ちょっと考えればわかることだよね?
せめて、そうならないように考えよう。
考えることを停止する、
そのことを、「平和ボケ」って言うんじゃないだろうか。

 そこで、半藤一利さんの言葉を、何度でも言っておこう。

戦争は、「ある日突然に天から降ってくるものではない。長い長いわれわれの『知らん顔』の道程の果てに起こるもの」である。

 歴史は何のために学ぶのか? 知識だけではもったいないんじゃない? 歴史ブームと言われていても、知識比べでは、自己満足にすぎない。「何故、成功したのか」「何故、失敗したのか」を学び、「今に、未来に活かすため」ではないか。
 であるとするなら、いわゆる「逆歴史学習法」が良いと思うのだけど、学校ではそうなっていない。そんな歴史学習だったら、このワタクシ、歴史嫌いにならなくて済んだのに・・・。
 多くは明治以降の近現代史をほとんど教えていない。中高はもちろん、大学の教養課程でもめったに教えない。なぜか。それは、触れられたくない歴史であるからではないのか。そう勘ぐらざるを得ない。私に言わせれば、太平洋戦争に至る歴史は、「恥」だった。だから、「日の丸」を国旗として自らが掲揚することをしないし、「君が代」を国歌として声高に歌えない。五輪のときの国旗掲揚、国歌斉唱だけは、(矛盾するけども、仕方ないから)周りに同調して、ちらりと涙なんか見せたりするけども。
 来年は、戦後八十年。先の戦争を、「なぜ? なぜ? なぜ?」と歴史を逆学習してみると、見えてくることも多くあるのではないか。

以下、『八月や六日九日十五日(2の1)【エッセイ】二四〇〇字』の続きになります。

「アメリカが、なぜ広島に長崎に原爆を投下したのか?」

 8人の高校生は、ディベートを進めるために、わずか80年前(2018年の発行なので正確には70数年前)の歴史に向き合い、その歴史の「逆学習」をすることになる。肯定派と否定派に別れて。

 トルーマン大統領の主張は、「原爆投下の目的は、戦争を早く終わらせ、アメリカと日本の犠牲者を最小限に抑えること」。肯定派の発表もここから始まる。

 たしかにチャーチルも、アメリカの日本本土上陸には米兵や日本人の多くの犠牲が伴う、と言っていたようだ。「一億総玉砕」の日本である。
 だとしても、いきなり市民の頭の上に投下するか。爆弾の威力を知らしめ白旗を揚げさせることが目的なら、過密な都市ではなく人のいない場所でも良かったはず。
 つまり、それまでの実験地とは異なる場所が必要だったのではないか。「人体実験」ができるような場所が。

 肯定派は、アメリカが主張した「口実」を提示する。「騙し打ちだった真珠湾攻撃」「南京大虐殺」などを。しかし、それは、「目には目を」の論理ということになる。

 トルーマン大統領は、1945年7月のポツダム会談で、ソ連が8月15日に対日戦争を始めることを聴いていた(結果的に6日早まったが)ので、日本の敗戦はわかっていた。なので、終戦を早めるために投下したという論理には無理がある。敗戦が明白な時期に投下した。なぜか。それは、有色人種、日本人への人種差別だったのではないか。
 根拠として、原爆実験の場所が、ネイティブ・アメリカンの暮す土地、ニューメキシコ州・トリニティである点、その後もビキニ環礁であった点を上げる。さらに、「排日運動」「日本人移民排斥運動」「日本人強制収容所」の歴史と原子爆弾は、同じひとつの根からのびてきたものであるのではないか、人種差別が根底にあるのではないか、と否定派は主張する。
 
 しかし、肯定派は、ある文章を根拠に反転攻勢をかける。それは、
安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから
だった。
 「過ちを繰り返す」の主語は「WE JAPANESE」ではないか、日本人は自分たちが間違っていた、と認めている。だから、投下は仕方なかった、と、肯定派は主張する。かなり無理がある発表に思えるが、実際にアメリカではそのように解釈する国民もいたようだ。
(むろん、広島大学の雑賀さいか忠義教授が広島市長から依頼されて書いた碑文の英文メモには、「WE」しかない。「For we shall not repeat the evil.」なのである)

NHK広島放送局

 肯定派の解釈である「JAPANESE」が入った主語「WE」が会場に提示され、否定派の形勢が一挙に不利に。しかし、最後に思わぬ展開が待っていた。「肯定派」のナオミから、想定外の言葉が発せられることになる。
 ナオミは、発表内容が偏っていたこと、碑文の解釈も浅薄なものであったことを認め、一冊の本を紹介する。書名は、『それでも、私は憎まない――あるガザの医師が払った平和への代償』。否定派のリーダー、ジャスミンから紹介されたのだが、いったんは拒絶しながらも、自ら手にし読んだ本らしい。
 (2009年1月16日の)イスラエル軍のガザ襲撃中の爆撃によって、あるパレスチナ人医師が3人の娘を失う。しかし、彼は報復を求めもしなければ、憎しみに駆られることもなく、その地域で人々に対話を始め、「わたしの娘たちが最後の犠牲者になりますように……」と言い、行動を起こすように訴えたのだ。
 ナオミは言う。
 「ガザ地区の難民キャンプで生まれ育ったパレスチナ人は、イスラエル軍の撃った砲弾で家族を殺された。しかし、彼は、『I STILL LOVE THEM』(邦訳本には、『I SHALL NOT HATE』とある)と言った」、と。そして、
<憎しみと怨恨のチェーン、暴力と暴力の連鎖を断ち切るためには、相手を許すしかない>
<———どんな言いわけが成り立とうとも、誰がどんな解釈をしようとも、広島と長崎の、罪もない人々を対象にした「人体実験」は許すべきではない———>
と結論付けた。

医師の名は、イゼルディン・アブエライシュ 。1955年ガザ地区の難民キャンプ生まれ。奨学金をもらいながらエジプトのカイロで学び、ロンドン大学産婦人科学研究所を卒業。97年から6年間イスラエルで初のパレスチナ人研修医としてイスラエルの病院に勤務。不妊治療を専門とする医師としてパレスチナ人、イスラエル人の双方を治療。現在はトロント大学の准教授。

『それでも、私は憎まない――あるガザの医師が払った平和への代償』(原題は『I SHALL NOT HATE』)(亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ) 単行本(ソフトカバー) – 2014/1/18 イゼルディン・アブエライシュ (著), 高月園子 (翻訳)

 アブエライシュ医師の願い空しく、このガザ地区で、またも、あってならないことが、いま起きている…。そして、イスラエルでも――。


東京新聞夕刊(8月20日)

 昨日の「東京新聞」夕刊には、イスラエルでハマスに殺害された母親の遺志を継がんと苦悩する男の記事が載っていた。男の脳裏に母の訴えが、蘇ると言う。「憎悪の連鎖を断ち切る勇気がなければ私たちに未来はない」。
 そして、母は、よく格言を口にしていたと言う。「かなづちしか持たない者はすべてがくぎに見える」と。

(注)
なお、『ある晴れた夏の朝』のディベート内容に、事実と異なると思われる箇所がある。
・核実験の回数など(実際よりも少ない)
「最も勇敢な部隊のひとつとしてアメリカのために活躍した『日系人442部隊』で命を落とした兵士の親の多くが広島出身だった」というのは、「多く」というのは認め難い。少々感情的な表現。
 
 小説『ある晴れた夏の朝』は、「あやまちは二度と繰り返しません」の言葉で締めくくって、終える。二度と過ちを繰り返さないために、「WE」は、なにをしなければならないのか。パレスチナ人医師の娘たちのような犠牲者を出す前にやるべきことがあるのではないか。

 「国連憲章」には、敵国条項というのがある。第2次世界大戦中に連合国の敵国であった国々に対し、安全保障理事会の許可がなくとも強制行動を取り得ることなどが記載されている(第53条と第107条)。現在は死文化しているものの、尖閣諸島、北方領土、竹島問題では効力を主張される危険性はある。
 ロシアあたりが、この「口実」のもと侵攻し、この条項に反したと、「言いがかり」をつけ「自衛」したまでだ、と「言いわけ」をする可能性もある。
 つまり、日本が何かしら不穏な動きをした時には、国連の安保理の許可なしに、日本に攻撃を加えられるという内容である。
 アメリカが護ってくれる? そう言い切れるだろうか。怪しいものである。じゃ、自国で守る? そこで「敵基地攻撃能力」(「反撃能力」)? その中身は、『先制攻撃能力』である。実際に、安倍政権から始まって岸田政権が「閣議決定」なんていう簡単な方法で前のめりになり、日本が世界第三位の重武装化に向かっている。その危険性がないとは言えない。

 勇んだ結果、戦争になって誰が責任取る? 責任取って済む話ではないが、誰も責任をとろうとしないだろう。いや、いまの腰抜け、ウソツキ、自分の儲けのことしか考えない権力者では、逃げるだけだろう。

 私が主張するような「軽武装」「非武装中立」に対して、「平和ボケ」と言う輩がいる。しかし、重装備化に賛同する輩も、「抑止力だよ、抑止力。だから絶対に戦争なんか起きねえよ。そもそも戦争なんか起きるはずがない」と、内心思っている「平和ボケ」ではないかとお返ししてあげたい。
 多くの者たちが「戦争? 起きるの?」なんて思っているんじゃないか? 中國、北朝鮮、ソ連という脅威を演出して、アメリカや戦争産業を儲けさせるだけで、実は、攻めてくるなんて思ってもいないんじゃないか?

「軽武装」「非武装中立」を主張すると、こう言う輩がいる。
「愛する人が殺されようとしているのに、丸腰のままか? 戦わないのか?」

こう答える。
「ハイ。戦いません。マクラを投げたり、バットとか、ゴルフクラブとかで必死に抵抗はするだろうけどね。最期は、愛するひとと、一緒に死にます。そのほうが仕合わせです」

 と前置きし(なんて書いたら、さらに長くなるので💦)、あとは、過去に何度か書いていること。簡単におさらいをして終わることにしたい。

 私は常々、こう主張している。
 「『政治』が実現すべきことは、端的に言えば、「国民の人権を守ること」と、思う。それは、(「自助」「共助」ではどうしようもない)ハンデある人たちの権利であり、そのなかでも子どもたちは、特に。「子は国の宝」の考え方のもと、成人まで平等に生きる権利を保障すべきと考える。
 「勝ち組」のひとの中には、「自己責任」を口にするものもいる。そうだろうか。「親ガチャ」という言葉は使いたくないが、現実として生まれた環境の違いで公平ではない状況に置かれる子たちがいる。さらに言えば、それは自己責任を超えた国の無策によって生まれたものである。

 自分にできることには限界がある。だから、政治に求めたい。とは言え、われわれの力不足で、「政治」が本来やるべきことをやらせられていない以上、可能な範囲で「共助」を続けたいと思っている。
 月一回だが、食材買い出しの一日分の額を支援している。いまやっていることは、とりあえず、子ども食堂「むすびえ」という団体である。

(ここまで書けば、支援してくれる方もいらっしゃる、よね? 笑)

 次は、この団体も検討している。
 ごはん応援プロジェクト「キッズドア」
 <こども家庭庁の「ひとり親家庭等の子どもの食事等支援事業」に参加し、「ごはん応援プロジェクト」として、ひとり親家庭を始めとした、要支援世帯の子ども等を対象に食料品や生活用品等の配布や食事提供等の支援を行っています>
 ということなのだけど、この「こども家庭庁」だけでなく、国を挙げてサスティナブルな政策としてやってほしい。軍需産業を儲けさせるような金があるなら、その全てを回してサ。

 ワタクシができることは限られている。その限界を超えたことは、国の役目と思っている。お金は限られる。なので、まず優先して、そのために使ってほしい。そのために少なくはない税金を納めてきた。

 そして、この「人として生きる権利」を、問答無用で台無しにしてしまうのが、「戦争」である。「戦争」になってしまうと、何をほざこうが、わめこうが人として生きる権利が、大きく制限される。だから、「政治」は、戦争を絶対に起こしてはならないのである。「戦争」になるかもしれないあらゆる可能性を排除していかなければならないのである。

 ところが、気になること、不安になることが、さいきん多すぎる。「新しい戦前」と、タモリ氏が発して以来、ときどき聞こえてくる言葉になった。軍備増強や武器輸出など平和主義を揺るがす現状に危機感を覚える。専守防衛であったはずの日本。が、その言葉さえも覚束ない。瀕死の状態である。
 2015年。安倍政権が憲法学者らの「違憲立法」との批判をよそに成立させたのが、集団的自衛権の行使を認める安保法制。憲法の下で厳しく制限してきた武器輸出も緩和した。安倍元首相以来の「憲法無視の政治」にまひしていないか、憲法にかかわる重大な施策が、権力側の意向で次々と決まっていくことに市民はならされすぎて、どこかで諦めていないか。岸田政権になっても、さらに鼻息が荒くなり、「敵基地攻撃能力」の保有、防衛費の大幅増、そして殺傷兵器である次期戦闘機の輸出解禁に踏み込んでいる。

 「抑止力」は、戦争を起こさないためと言うが、本当にそうなのか。
大人っぽいことを言おうが、ガキっぽいことを言おうが、戦争になったらすべてが終わるよ。

 前回の終わりに書いたことを繰り返す。
 「現実に合わせて、憲法、とくに憲法第九条を変えるべき」と主張する輩がいる。そう思わない。憲法は、ときの為政者が守るべき規範なのである。その為政者には、理想を目指してほしい。現実に合わせるようでは立憲主義の意味がない。
 何度でも言う。
 防衛に、正解はない。誰にも正解はわからない。
 ただ、歴史に学ぶなら、
 「戦争は、誤解や言いわけから始まっている」
 だから、
「誤解や言いわけ」を許すような要因は、排除することだ。
 あとは、

「生き方の問題なのだ」
不幸にも戦争になってしまったら、「殺す側」になり、残りの人生、悩むことになるか、
「殺される側」になってしまうが、それをヨシとして一生を終えるかの選択である。

ここでもイイこと書いてあるよ。(笑
防衛費の増額? 世界第三位の軍事予算? 「専守防衛」はどこに行く?

「国」の仕事は、「ひとつの命」を護ること。弱き者のためにあること。

 考えなければいけないことはたくさんあるよ。
・現実に合わせて、憲法(特に第九条)を変えようとしているよ
・軍事予算が大幅に増えていくよ
・政治だけでなく、国全体のモラルが低下しているよ
・etc.
 と、続きは、次の機会に。

 この「八月」にあらためて考えたこと。

 「非武装」を実現するなどすぐにはできない。だけど、平和憲法前文・第九条を保有する日本だけでも、侵略の「口実」を与える「軍事力」を率先して削減することを求め、「不戦」の声をあげていこう。来年、80年目の「八月」を迎える「WE JAPANESE」に、沖縄・広島・長崎・空襲の死者と、そして日本が侵略し殺したアジアの人々がそれを求めていると思えてならない。そして、想像してみてごらん。

最後に敢えて再び、半藤一利さんの言葉を。『イマジン』を聴きながら^^

戦争は、「ある日突然に天から降ってくるものではない。長い長いわれわれの『知らん顔』の道程の果てに起こるもの」である。

長々とすんません・・・。やっと終わりです。💦

(後記)
 タイトルの「八月や六日九日十五日」は、五七五になっている。思いついて、ニタリとしたのだが、念のため調べてみると、俳句の世界では「知られた一句」とされているようだ。多くの人が詠んだようで、「詠み人知らず」どころか「詠み人多数」らしい。いい句だね。


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