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八月や六日九日十五日(2の1)【エッセイ】二四〇〇字

「これから死ぬかわいそうな悪魔たちに哀れみや同情を感じるだろうか。いや、真珠湾(攻撃)や(フィリピンの)バターンの死の行進を考えれば、それはない」

 これは、長崎への原爆投下に同行したニューヨーク・タイムズ(NYT)社記者の言葉である。記者の名は、ウィリアム・ローレンス(1888~1977)。彼は、「ファットマン」を搭載したB-29「ボックスカー」に搭乗し、出発時の様子から始まり最後はキノコ雲の描写で終わるルポを書き、NYT紙に掲載。翌1946年、2度目のピュリツァー賞を受賞した。

B-29「ボックスカー」

 ルポは、多数のアメリカ国民が信じる原爆投下を正当化する「5つの神話」のベースとなる。
「5つの神話」
①事前に警告し軍事基地を破壊した
②その衝撃で日本はすぐに降伏した
③アメリカ人100万人、さらに多くの日本人の命を救った原爆は救世主だ
④アメリカは神に託されて慈悲深い行いをした
⑤原爆による放射能の影響は(ほとんど)ない

 私は、冒頭の言葉を9日の朝日新聞朝刊国際面で見かけた。

 「悪魔たち」とは、1945年8月9日の11時前、長崎にいた市民のことである。搭乗した者たち全員がそう思っていたかはわからないが、そう思い込まないと無差別殺戮を遂行できないだろう。実際、日本では「国家総動員法」が1938年に制定されていて、軍隊だけでなく全国民が敵と戦う兵士とされていた(武器は竹やりにしても)。とはいえ、国際法違反の戦争犯罪であることにかわりない。
 因みに、「原爆裁判」の判決を下した三淵嘉子が主人公の『虎に翼』。本日、寅子(三淵嘉子)がその「裁判」を担当することが決まる回だった。

 2019年9月。「広島原爆資料館」に行った。39歳で初めて訪ねてから30年ぶりだったのだが、一度目よりも欧米人の姿が目立った。思った、「この人たちは何を思いながら見学しているのだろうか」と。広島に来て入館しているわけだから、広島の原爆投下には、むろん「NO」だろうが・・・、と思いつつ。


今年は、映画『オッペンハイマー』の影響もあり、入場者数が増えているかもしれない。
日本語と英語しかわかりませんけど、書かれた皆さんの気持ちは、
“No more Hiroshima! No more Nagasaki!”。

 しかし、史上最悪の兵器を使った当事国の国民のなかには、原爆投下を肯定するひともまだ多くいるようだ。それも決して不自然なことではないだろうとも思う。「悪魔たち」と、教育されていたわけだから。
 
 そこで、小手鞠るいさんの『ある晴れた夏の朝』に出会った。

 『ある晴れた夏の朝』は、原爆を討論するディベート形式で描いた青春小説になっている。とりわけ広島と長崎に原爆を投下する必要があったかどうかをテーマにしている。ストーリーはフィクションであるが、ディベートで発表される出来事は事実に基づいている。
 登場するのは、さまざまな人種のアメリカの高校生、ルーツの異なる8人。日系アメリカ人のメイ(主人公)をはじめ、アイルランド系、中国系、ユダヤ系、アフリカ系と、さまざま。広島・長崎に落とされた原子爆弾の是非を、肯定派、否定派に分かれて討論する。
 メインテーマは原爆投下の是非だが、それぞれの登場人物のおかれた立場から、真珠湾攻撃、日中戦争、ナチズム、アメリカマイノリティなどにも話が及ぶ。「先の日本で行われた戦争とは、なんだったのか」を高校生の視点から問いかける。
 著者は、アメリカ人をパートナーにもつアメリカ在住の日本人作家、小手鞠るいさん。詩人であり、絵本の原作、エッセイ、児童書なども手掛けており、文章が読みやすい。

 「マンハッタン計画」は、ナチスの原爆開発阻止を目的に始まった。しかし、1945年6月5日のベルリン宣言の時点でナチスは敗北・滅亡。日本も敗戦が濃厚になっていた時期に原爆を投下する必要があったのか。かつ広島だけでなく長崎にも(三発目は東京だったと言われている)。「投下の目的はなんだったのか」「人体実験ではなかったのか」「人種差別だったのではないか」と、ディベートは激しく繰り広げられる。

 実際にこのようなディベートを観てみたいと思いながら読み進めていた。

 英文版も刊行されている。アメリカだけでなく核保有国の国民を中心に是非、読んでもらいたい。と思った(「原爆資料館」で、当然、販売されているのだろうね)。

 「ある晴れた夏の朝」が舞台化されていてもいいと思い、調べてみたら、あった。
劇団うりんこ/うりんこ劇場

「八月や六日九日十五日」
 毎年、8月は「戦争と平和」を考える1か月にしている。むろん、8月に限ったことではない。3月10日の「東京大空襲」、6月23日の「沖縄慰霊の日」、12月8日の「太平洋戦争開戦記念日」などの日も、ではある。
都合の良い言いわけを探し、思考停止状態になることが最も危険であると思っている。常に、戦争の前段階じゃないかと用心し、考え、発言し、行動することが大切と思っている。

 半藤一利さんが、よく書いていた。
戦争は、「ある日突然に天から降ってくるものではない。長い長いわれわれの『知らん顔』の道程の果てに起こるもの」である。

 広島出身の「キシダ」が、憲法改正の意思を明らかにしたとか。緊急事態条項に加え、第九条への自衛隊明記という、(一見)国民が認めそうな改正からという(姑息な)考えである。平和を護るためだと? 信用はできない。実態は、利権や個人的利益を守るためである。騙されてはいけない。
 改憲論議で、「第九条を、現実に合わせて変えるべきだ」と主張するひとたちがいる。そう思わない。憲法は、ときの為政者が守るべき規範なのである。その為政者には、理想を目指してほしい。現実に合わせるようでは立憲主義の意味がない。
 
————続きは、次回に。
次回8月21日は、『ある晴れた夏の朝』のディベートの内容と、私の「八月や六日九日十五日」について書きたい。

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