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また読み直したいものを勝手に放り込んでゆくところです。 勝手に入れますが、御容赦ください。
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#掌編小説

【掌編】ウィル・オ・ウィスプ

【掌編】ウィル・オ・ウィスプ

己の呼吸と重たい衣擦れの音だけが、空間に響いている。もうどうれくらい此処にいるのだろう。周囲は、相も変わらず闇に支配されている。冷え切った床と壁は、あらゆる生命の営みを拒絶しているかのようだ。

私は罪を犯したとされた。家族や恋人、私にとって大切な人々の誰一人として減刑を嘆願しないのは、私の罪が王の怒りに触れるものだったからであろう。

しかし、である。私はただ一言、こう詠っただけだ。

――光こ

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【掌編小説】雪の日のプレゼント

【掌編小説】雪の日のプレゼント

「参ったなあ。今日と明日は、大変な大雪なのかぁ」
 数年前の冬の日のことだだ。その日、台所で皿を洗いながら傍らに置いたスマートフォンで天気予報を見ていたわたしは、心の中でつぶやいていたた。その言葉はとても口には出せなかった。わたしの腰にしがみついている二人の子供に、聞かせたくなかったからだ。
「ねぇ、ママ。今日はクリスマスイブだね」
「クリクマシブだよねぇ」
「ケーキ食べるよね」
「キチン食べるよ

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水曜日の午後、喫茶白鳩にて

水曜日の午後、喫茶白鳩にて

しとしとと雨の降る夕まぐれには、決まって彼のことを思い出す。彼はこういう日にこの喫茶店に来ると、いちばん窓際の席に座って、ずっと外を見ていた。雨だれがガラスに打ちつけるのを寂しげに、しかしどこか楽しそうに眺めていた。

彼はいつも同じ文庫本を持ち歩いていた。気に入ったページにはよれよれの付箋が、青々と茂る芝生のように大量につけられていた。それでは意味がないのではと尋ねたことがあったが、彼ははにかん

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【掌編】神無月

 呼ばれたので出かけた。夜になお目を忍ぶ金木犀が、なお香る。
 徒歩七八分いった先を曲がり、なにくわぬ顔をしてアパートに入りこむ。彼の部屋の鍵は開き、明かりも落としてあるのはともかく、裸で待っているのはどうかと思うがかわいい。
 服も下着もろくに見られず自ら脱ぎ捨てて、口を塞がれながら、苦しいほど早急にからだを合わせる。
 かえり道も金木犀がまた香る。近ごろ、汗ばむと焼き菓子めいた匂いが立つ。不思

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猫をなくした男と、女

猫をなくした男と、女

今日あいつに似たやつを見かけた。
あっちもおれに興味があったみたいだ。

そう、男が女に話すのは、もう、何度目か。

男は猫をなくしている。
女には、なついてくれた、はじめての猫だった。

 一

女は友人に誘われて、男の実家にある男の部屋を訪れた。
三方に窓が開き、日なたと、趣味のこまごまとにあふれていた。
にゃあと男の飼い猫がやってきて、客人たちの足元を、くるり、くるりと一周ずつした。
終える

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定期券

定期券

70歳になると市から貰えるという通称「老人パス」。
市内の路線バス、市バスともう一社のバスの乗り放題パス。
自分は今年で76だが、今まで自家用車を運転していた。それが目を患い視力が落ちたことで子どもたちに運転免許の返上を促された。
確かに隣の奥さんがスーパーの駐車場でアクセルとブレーキを踏み間違えて事故を起こしたとか、元同僚がいつも出し入れしている自宅の車庫に車をぶつけたとか話を聞くと、子どもたち

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