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芸術的文学とは。(美しい文章の探求)

 まず、この探求を軽易にするために乱文(駄文)とは何故そうなのかについて語りたい。(何となれば、課題が課題であるのは分からないことがあるからそうなのであって、つまりは何かそれに関する何かしらを知ること(分かること)によってその答えに至れるだろうし、加えて全く反対のことを考察するということはその問題の二面性を露わにするのであるから、つまりは万物に必ず備わっている、「長所と短所」といった反対の性質が露見するのだから、万物の性質が露見するのだから、そしてそれには必ず関連性があるのだから、それとはいかにも答えにたどり着くために入用だからだ)すなわち、「自分のことが嫌いだ」、「こういうことがあってそう思った」、「もう自分はダメだ」、「死んでやろう」、「でも死ぬのは怖い」、「いやその前に倫理的にそれはいかようか」、「まあ、ありがたいことに悲しんでくれる人はいる」、「その人たちのことが頭によぎる」、「自分は彼らを愛している」、「でもそれに気づけず自分は苦しんでいる」、「でも、そんな自分にも転機が招来した」「ある日、そういう人たちの恵みを受けて生きようと思ったのであった」という一連があったとする。(まあ、この時点でもう既にしがないのだが)こういう時恐らく大抵の人は、例えばその折々の感情や考えや風景を描写するのだろうが、それは実のところ何のためかというと、自説では読者をその世界へ引き込むことなのではないだろうか。(いや、これは自説でも何でもないかもしれないが)だからつまり私が言いたいのは、まずその小説や詩を完成させることを目的にしなくていけないということである。(補足として、これは論点がずれているようだが、しかし自分の表現したいことを正確に表現せず読者に理解されたり、表現したいことを表現したのに理解されなかったりすればそれはもはや作品ではないのではないだろう、なぜなら作品とは双方の了解の上で成り立つものだからで、さらに加えさせてほしいのだが、もちろんこのことは作者が作品として書いたそれだけに限定した話である)
 さて。実のところ、その「完成させるという」、まさしくそのことに(私が思うにもはや全ての)問題がある。作品の完成の行程を、正しいそれを追うならば、(まあ私の場合は)無鉄砲で無作為的な、成り行き任せの便宜主義的な、そういう態度で行う創作こそ正しく賢い創作であると私は思う。(補足として、ここでいう正しいというのはより作者の作為を的確に表し、そうして読者にはその作者のその作意がいかようかということが「伝わるか」というよりかは「どれほど作者自体を、その人間性を考察されるか」ということに重きを置き、そしてそれを促すことができるかできうるもののことを私はここでは正しいと称している)何となれば、作者の作意というのが、すなわち心象というのがとっさに美しく整った形で表出することはまずありえないだろうし、加えて実のところそれはただの心象なのであって、つまり決して具象でないから、それは作品に反映されないからである。(というのも、心象というのはそもそも人間がまだ言語化できていないものであるからで、そしてその言語化とは人間一般における心象を言語化によって具象することなのである)多分このことが、そもそも美しい文章を書く前に障壁となっているのではないだろうか。
 では次に、本題に移ろう。
 上記の彼は「彼は自分が嫌いで、それはどうやら以前遭遇した出来事が原因であるらしい。」とまず私は概括したが、では例えば「あることに遭遇した彼はそれが起因して自己嫌悪を抱いているらしい。」と、変換したとする。私自身、(まあ好きか嫌いかなのだが)後者の方が好みである。そしてそれはもちろん、美しいという意味で好みである。理由はと言うと、まず自説では一文は基本的に流れるようにすべきであるからだ。(もちろんそれこそ芸術的であるからだ)だから一文の中に読点を挿入するのは、前に戻りたいのに流れが急すぎて戻れない場合のみで、それはつまりは前に戻るのでなく待つことで、その場に留まることで前を取り戻すということなのである。(まあ、リズムのことである)
 次に。例えば、「彼は、そうだから自分はダメだと、そう自責しては起き伏し嫌悪感を募らせて、そうして惨めにも恒常的に苛まれているのであった。」と繋げたとする。まあ、これは美しいとしよう。ではなぜそうか。すなわち、前に記した主意の一つである「自己嫌悪」を次の「自責」というそれに巧妙に関連付けているからである。つまり、美しい流れを作れているからである。そしてさらに、もう一つの主意である「原因」に派生する余地をきちんと残しているからである。
 次に。例えば、「あることに遭遇した彼はそれが起因して自己嫌悪抱いているらしい。彼は、そうだから自分はもうダメだと、そう自責しては起き伏し嫌悪感を募らせて、そうして惨めにも恒常的に苛まれているのであった。「死んでやろう」とそう思ってしまう程に彼の精神は自責に蝕まれていた。云々(うんぬん)
しかし、「死ぬ」とはどういうことなのかと、そう考量するとゾッとした。きっと恐ろしいに違いない。彼はそう思った。しかし、彼は手ごわかった。何が手ごわかったのかというと、彼は「恥ずかしさ」という露骨で特徴的なそれが何たるかをはき違えては、実に大儀なことに「意地を張る」という悪あがきを信仰しては、救いを求めていたのであった。彼は、倫理に背くということ、それに固執することを恥ずべきと考えていた。だからつまりは、「倫理に背くと言われているそれを守ることは恥であるが、死ぬのは恐ろしい」と考えていた。つまり彼は、「倫理を守りたいから死なないのでなく、恐ろしいから死なないのだ」と意地を張ってはとかく、しばらくの間は死なないでいたのであった。
 がしかし。死ぬことを望んでいた彼だが、そのような捨て鉢になった短慮な考えをもってそれを望んでいた彼だが、本当のところ彼は愁嘆して悲しみに暮れる人のこと(大衆)がどうにも頭から離れなかった。彼らがうずくまって泣きわめいている映像が、そのような惨憺たる映像が鮮明に浮かび、その映像の悲惨さに、それに影響されて彼の良心は付かず離れずの態度を取るようになっていた。
 しかしある日、ある狂人を見て思った。「僕は彼のように人を愛いしているのだ」と。それが彼の転機であった。だからそれから彼はそのいじめっ子を愛すようになった。彼らを慈しむようになった。なぜなら、人間を人間たらしめているものこそが愛であり、そしてそれとは誠に称賛すべき無比で絶対的な、断然恥ずべきでない倫理であることを悟ったからである。(もっとも、これは間に合わせのとりあえずのそれであるため、あからさまにこれは不束なのであるが)
 さて。これを「美」たらしめているものの一つは段落である。持論では、段落というのは時間(空間)の流れ(これは停滞を含む)を扱っているものだと思う。すなわち、例えば二から四段落を引き合いに出すと、矢庭の考えという時間の停滞の後に、また違うそれが来て、そうして最後は改心したという流れ、これは段落によってなされている。まあ、(異なる)空間と空間の相関関係、それを繋ぎ合わせるのが段落であり、それなくして「美」は為されない。なぜなら、先に述べたようにここでの「美」とは流れのことでしかないからだ。
 そして次に。その肝心の空間と空間の相違についてなのだが、これは分かり易く言えば「点と点」のことである。がしかし、私の心象ではそれは「全体における役割の分布」のことである。(ここで一つだけ矛盾に思われるものとして、無鉄砲に書いていては全体など分からないという主張があるだろうが、そもそも何の修正なくして「美」など生まれないのだから、何の矛盾もない)まあつまりは、今まで辿って来た道の点を、来た道を戻りながら修正してから再度、もう一度線を引くということにおいて、目的地から若干というよりかは、(もっとも、人によって何がそれでそうでないかの価値観が違うだろうが)一目で分かるほどに外れているそれら、それらを私は空間の相違だと考えている。(以上が差し当たり考えられるそれである)

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