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彼女と歌舞伎町と正露丸

起き抜けに冷たい水をがぶ飲みしたせいで、休日だというのに昼過ぎまでトイレに駆け込む羽目になった。
親父がいつも常温の水を飲んでいた理由が分かった。というより分かってしまった。
そうか…そういうことだったのか…
あまりにも痛みが引いてくれなかったので、キッチンの上の扉を開けて、正露丸の瓶を手に取った。
その厳かな名前の書かれた瓶の蓋を回すと、あの独特な臭いが香ってきて、懐かしい記憶が強烈に蘇った。

その日、僕等は新宿のドンキホーテ前待ち合わせをしていた。
待ち合わせの時間を20分ほど過ぎたところで、全身をハイブランドで身を包んだ彼女が横断歩道の先に見えた。
僕がイヤホンを外して彼女に視線を送ると、それに気付いた彼女は頬を緩めて2、3歩だけ小走りになった。
一瞬だけ急ぐそぶりをした後、笑顔のまま悠々と僕の方に近づいてくる。
「ごめん、待った?」
ロエベの香水のエロい匂いがする。
「いつものことだから想定内だけど、ちょっとだけ急ぐフリするの、あれ要らないから」
「えーなんでよ。お会計の時に財布出すフリもしない女は嫌いって言ってたじゃん」
彼女が体を捻って、コーチのショルダーバッグを僕にぶつける。それを3回繰り返した。
僕はショルダーバッグを手で押さえる。
「てか、そういう服着て来るのやめてって。水商売やってますって感じがプンプンするからさぁ」
僕は、彼女の服装を一つ一つ確認するように、目線を爪先から頭へとゆっくりと移した。
「えぇー。実際そうなんだからいいじゃん」
彼女はそう言い放つと、そのまま歩き出した。

行き先の分からないまま付いていくと、彼女は雑居ビルの地下1階にあるバーに入った。
レンガ調で、電球色のライトが柔らかく照らす、カウンター6席とテーブル2席のこぢんまりとした店だった。
静かにジャズが流れる店内にはカウンター席とテーブル席にそれぞれ1組ずつしか客は入っていない。
「カウンターとテーブルどちらになさいますか?」とスーツのダンディな店員に聞かれ、「カウンターで」と彼女が答えた。
そして、「お洒落でしょ?」と彼女が僕に耳打ちをしながら、案内されたカウンター席に座った。
「トリキで良かったんだけど…」
僕は椅子に腰掛けて、彼女の耳元でボソッと囁いた。
また、エロい匂いがする。
「この服でトリキは変でしょ」と彼女が答えた。
僕は、「だから普通の服が良いって言ってるのに」と返そうとしてやめた。
下手に突っかかり、ややこしいことになった記憶が頭をよぎったからだ。
そして煙草に火をつけた後、「確かにそうだね」と小さく返した。

「なにがいい?」
彼女はメニューを独占しながら僕に尋ねた。
「何でもいいよ、お前と同じので」
落ち着いた色の光に照らされた彼女は、元々ここにずっといたかのようにこの店に溶け込んでいる。
どこか、そのまま溶けて消え入りそうな雰囲気を感じてしまうほどだった。
「ご注文はいかがいたしますか?」
丁寧に手入れされた髭を蓄えた中年のバーテンダーが尋ねた。
「ラフロイグのロック2つと、チョコとミックスナッツをお願いします」と彼女が言った。
「若いのになかなか渋いのがお好きなんですねぇ」とバーテンダーが微笑んで、彼女は夜用の笑顔で「そうなんです」と答えた。
「ラフロイグって何?」
「来たら分かるよ」
彼女は悪戯っぽい笑みを見せた。

「ラフロイグのロックです」
バーテンダーが僕と彼女の前にグラスを差し出した。「まず匂い嗅いでみて」
彼女がそう言って、僕は鼻にグラスを近づけた。
ツーンとした匂いが鼻を刺す。
「うぇっ、何この匂い」
僕がグラスを鼻から離して、彼女の方を見た。
驚いた僕を見て彼女は満足気に笑った。
「正露丸みたいな匂いでしょ」
「それだ。正露丸の匂いだ」
「この匂い好きなんだよねぇ…」

瓶から3粒取り出して、口に入れた。
口の中にあの独特な匂いが広がり、水で流し込んだ後も微かに残り香が漂った。
「この匂い好きなんだよね…」
そう言った彼女の横顔がもう一度頭に浮かんだ。




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