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潤心(ダメ人間)
2024年4月19日 21:47
●大口の一向一揆九州は全国平均に比較して、一揆のような農民の騒擾は少ないという。鹿児島純心女子短期大学教授で尚古集成館館長、鹿児島県立図書館館長などを勤めた芳即正先生の研究によると、〝薩藩における抵抗運動〟は「愁訴嘆願、不確かなものまで含めて19件、薩摩国5件、大隅国11件 (ほとんど奄美諸島)、日向国3件」でいずれも江戸期のものだという。しかし、この数は、最低これだけは確証があるというだけ
2023年11月12日 18:25
●真宗信仰の奇跡垂水の柊原には、「ドンデン仏」という谷があり、昔の人が隠れて真宗の法座を営んだという伝承があるが、この谷から身を投げても阿弥陀仏の加護で死にはしないという伝承もある。これは民間の中で信仰にまつわる事象が奇瑞化していったものと思われる。本願寺の親鸞伝にも数々の着色があるのだが、地方にいくと、親鸞のカリスマ化や神格化、真宗の魔術化や秘教化によって、親鸞の念仏によって死んだ魚が泳ぎ
2023年11月6日 19:55
講頭・番役講頭(こうがしら)は講の代表者。「本尊持ち」や「法頭人」とも言い、方言では「講頭殿(こずどん)」とも言う。一組に二、三人の講頭がいた。番役(ばんやく)は各地の御座の世話役。薩摩の講は数個ないし数十個の小寄講が集まって一つの講を組成している例が多い。小寄講は数戸ないし十数戸の講員で構成されている。御順在本願寺門主の消息が各地の講を順にまわって、披露して廻ること。講の本尊が小寄講
2023年6月27日 09:35
曖昧僧禁教中の南九州には有志の僧がひそか布教に来ており、西本願寺も使僧を派遣していたが、真宗解禁後はこれらの潜伏僧を「曖昧僧」と呼んで非難した。というのも、これから政府とともにやっていこうという矢先、過去に公儀に反して禁足地に僧侶を送っていたとなると、本願寺は信用されなくなってしまう。そこで、「薩摩に布教に出た僧侶は、本願寺としては与り知らないもので、私的に本願寺の教えや納金をしていたよう
2023年5月5日 18:11
仏壇・本尊のさまざまな様式かくれ門徒は公に仏壇を設けられないので、本尊をいたるとろに隠して拝んだ。神棚を装った仏壇(都城歴史資料館蔵)、一見ただのタンスに見えるが、上部を開くと仏壇になっている「タンス式仏壇」(真宗大谷派鹿児島別院大谷会館蔵)。講から講へ本尊を移す際に魚売りの行商にふりをして使用した「お運び魚籠」(光徳寺蔵・大谷会館にて展示)。番傘のように模った木箱の中に巻いた掛け
2023年3月14日 21:42
五劫様真宗の本尊である阿弥陀仏の像を拝むと、容易に一向宗信仰の嫌疑がかかるので、かくれ門徒の中には法蔵菩薩の像を祀り、これを「五劫様」と称した。なぜ法蔵菩薩像を用いたかというと、五劫思惟の修行によるあばら骨の透く姿が、釈迦の苦行像に見えるため、一向宗の嫌疑があっても、これはお釈迦様だと言い逃れられたからだという。この像は、齊藤家の二代目、齊藤全流が鋳造し、同型のものがいくつか遺っている
2023年3月7日 15:31
齊藤節禁制下の潜伏僧の一族である齊藤家の出自は、島津藩家老(或いは藩重臣と伝えられる)であるという。その祖は武士の身分を捨てて出家し、齊流寺釋恩暢(俗名 齊藤齊流)と名告り、薩摩に多くの講を結び、その教導にあたった。齊流は、「薩摩諸講執事」として、西本願寺より薩摩国出身者で最初の浄土真宗の僧分に引き立てられ、後に薩摩国最初期の寺号「齊流寺」を西本願寺に願い出るなど、鹿児島の真宗の歴史に
2023年2月28日 15:38
鹿児島の真宗民語鹿児島の開教使がもっとも痛感した障害は言語の壁であったという。現代においても薩隅方言がむずかしいというのはよく聞く話。訳の分からない言葉を浴び続ける日々に辟易しただろうことは想像だに難くない。それはさながら国外開教である。しかし、鹿児島には、真宗との邂逅によってうまれた独特の真宗民語(門徒ことば)もある。土徳の籠るそれらの言葉は、〝真宗〟と〝鹿児島〟という、形而上下
2023年1月17日 03:11
ブラジル移民とかくれ念仏『【編集復刻版】仏教海外開教史資料集成』(2009年/不二出版)という本がある。これは日本仏教の海外布教についての資料を蒐集し、解説したものであり、ハワイ編、北米編、南米編のシリーズが刊行されている。本書収録の『伯国仏教篤信功労者名鑑』には、鹿児島や熊本からの移住者も紹介されており、片っ端から読んでみると、人吉や鹿児島の地の真宗禁制について言及されてる方が5名いらっ
2023年1月13日 22:52
●教如の念仏本願寺12代法主であり、大谷派開祖の教如は戦国時代の真っただ中を生きられた人だ。特に23歳時が激動の年であった。13歳からの大坂本願寺戦争(いわゆる石山合戦)が終結したものの、尚も4ヶ月間に及ぶ大坂抱様の末、本願寺は焼失。その間に父顕如には義絶された。それでも教如は自身の信念を貫き、24歳の1年間は特に信長勢からの人目を逃れ、「山上源大夫」という名前を名のり、浪人の姿で流浪の生