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【連載】かくれ念仏/No.1~教如の念仏~

●教如の念仏

本願寺12代法主であり、大谷派開祖の教如は戦国時代の真っただ中を生きられた人だ。特に23歳時が激動の年であった。13歳からの大坂本願寺戦争(いわゆる石山合戦)が終結したものの、尚も4ヶ月間に及ぶ大坂抱様おおさかかかえざまの末、本願寺は焼失。その間に父顕如には義絶された。

それでも教如は自身の信念を貫き、24歳の1年間は特に信長勢からの人目を逃れ、「山上源大夫やまがみげんだゆう」という名前を名のり、浪人の姿で流浪の生活をしていたという。

教如一行はどこに留まるということなく、全国を逃げ回っていたのだった。その折のゆかりの史跡で、和歌山市雑賀岬には「教如窟きょうにょくつ」といわれる洞穴がある。

その後は、岐阜県の郡上八幡ぐじょうはちまんに向かい、八代八衛門という人物が教如を匿ったという。そこは今では「教如屋敷」とか「教如上人隠栖屋敷」と呼ばれている。このことを詳しく語ると聊か脱線してしまうので、ネットに素晴らしい記事があったから、そのリンクを貼らしていただく。

同時代、教如らは富山の城端や尾張・三河方面へも足を延ばしたと言われているが、いずれも山岳森林に紛れるようなさすらいの時間であったのだろう。


また、織豊時代を経た、1600年の関ヶ原の戦いより少し前のきな臭い時代、教如方は徳川家康につき、石田三成の不穏な動きを逐一報告していた。教如はその褒美に名馬をもらったりしてるのだが、このことによって、三成配下の軍勢にいつも命を狙われてしまい、またも教如は命がけの逃亡生活の日々を送ることとなる。

この時のゆかりの史跡には、岐阜県揖斐いび郡揖斐川町春日には鉈ケ岩屋なたがいわや、別名「教如岩きょうにょいわ」といわれる岩陰がある。

教如を守って殉じた「泥手組」や、ある寺の住職は教如と瓜二つで影武者となって死んでいく話もあるのだが、ここではテーマを逸れるため割愛する。

さて、上記の教如窟や教如岩などは、いずれも教如が身を潜めて念仏を申していた場所なわけだが、私はこれに鹿児島の、真宗禁制下に掘削した穴や洞窟の中で法座をしていたという〝かくれ念仏洞(ガマ)〟を想起する。

鹿児島のかくれ念仏に対し、「洞窟や岩陰でこっそりと法座をしていたなんて!」と、あたかもそれが歴史上他に類を見ないものかのようなリアクションをされることがあるのだが、そうじゃない。まさに教如の念仏はそうような状況の懸命の念仏であり、つまり、大谷派の歴史の起こりも、鹿児島の真宗念仏も、暗闇の中から湧き出てきた念仏であったわけだ。

この二項の共通点や類似性は、更に広汎に敷衍する。

常闇に塗り潰されたような人間の無明にこそ射す、一滴の光があるのではないか。

苦界にこそ捧げられる一炷いっしゅの明かりがあるのではないか。

真宗の念仏は暗がりに咲く熾火おきびである。


……かっこいいこと言えたんでもう一度。「真宗の念仏は暗がりに咲く熾火おきびである」。この視座を据えて、「シリーズかくれ念仏」を展開していく。今後ともどうぞお楽しみください。



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