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【連載】かくれ念仏/No.3~ブラジル移民とかくれ念仏~

ブラジル移民とかくれ念仏

『【編集復刻版】仏教海外開教史資料集成』(2009年/不二出版)という本がある。これは日本仏教の海外布教についての資料を蒐集し、解説したものであり、ハワイ編、北米編、南米編のシリーズが刊行されている。

本書収録の『伯国仏教篤信功労者名鑑』には、鹿児島や熊本からの移住者も紹介されており、片っ端から読んでみると、人吉や鹿児島の地の真宗禁制について言及されてる方が5名いらっしゃった。
列挙するに、


熊本県人吉町大畑 田代金蔵  
明治33年2月2日生 
檀那寺:妙光寺
昭和3年6月15日 らぷらた丸
サンパウロ州サンミゲール・パウリスタ町
 
鹿児島県枕崎市字東籠 中野益男  
明治27年5月14日生 
檀那寺:枕崎西本願寺
大正2年8月30日 三島丸
サンパウロ州モジアナ線グアラー市
 
鹿児島県川辺郡坊の津村久志 山下齊二 
明治36年12月29日生 
檀那寺:廣泉寺
昭和2年10月3日もんてびでを丸
聖市ビネイロス区イグアテミ街二二二一番
 
鹿児島県薩摩郡宮之城町平川 木下清紀 
明治24年4月8日生 
檀那寺:信教寺
サンパウロ州ノロエステ線ペレーラ・バレット市

鹿児島県日置郡日吉町山田 大薗常吉 
明治31年4月10日生 
元勝寺仏教会役員
サンパウロ州パカエンデー市平和植民地

と、なかなか頻繁に「かくれ念仏」について紹介されている。
当時のブラジルで、日本仏教在家信者のリーダーのような方々に、かくれ念仏に対する認識があったことの意味は大きい。

上記の真宗禁制地の渡伯者のなかで、山下齊二さんについての記事を全文抜粋する。少々長くなるが、大変鋭い指摘を含んでいて重要である。
なお、(※)は私の註である。

天□の昔、今からおよそ四百年前、南の果は薩摩の国の念仏衆に暗黒の世が襲ったのである。それは一向宗(浄土真宗)禁制であって、朝な夕な人々の口に親しまれていた南無阿弥陀仏の唱名が、その時以来三百余年、薩摩の歴代藩主島津家〝禁断〟の教えとなって、明治後維新の改革で信仰の自由が認められる迄続いたからである。思えばこの永い真宗禁制の時代に、赤い血涙を流した殉教者の熱烈な信仰こそ親鸞の教の本質をなすものであって、一片の法令や血ぬられた拷問断罪などに届腹するどころか、むしろ心の内に燃え広がり、命がけの念仏となって遂には一向一揆その他門徒の反発とまで燃え盛ったのであった。島津領内大隅薩摩ではこうして一向念仏宗をキリスト教同様邪宗門と見なし禁断して、苛酷なまで厳重に取り締まったが根絶することが出来ず、各時代を通じて「かくれ門徒」の法難話が数多く伝わっている。ことに薩摩半島の南端加世田郡や川辺郡に宗祖親鸞の教を守りぬいた逸話が数多い。明治十年頃から鹿児島の各地に本願寺の御堂が建ち始め、京都の御本山から善知識や大徳が念仏弘通のために赴いた。何百年に亘る□迫後の春の事とてまことに盛大なもので、どんな片田舎の村でも反動的に大きな法廷が張られたが、不思議なことに門徒達は別に「村ぼとけ様」と称して、時々昔のように従来の田舎坊さまを招じ、説教を聞いたり、み親様を礼拝したりすることが極く最近まで続けられて来たのである。これは多分何百年の間役人の目を逃れて秘密に信仰して居た間に、土地柄に適した特殊な法会の型が出来て、新しく来たお坊さん達の金襴の法衣や一$でも多く浄財を獲ようとする心根、非実質的な御示談の内容が同行達の素朴な気持にしっくり来なかったからでは無かろうか。ともあれ、此のような宗教的純情無クな雰囲気を持った川辺郡の南端坊津に生を受け、久志の名刹廣泉寺の御同行として妙好人の誉れも高い、山下齊大郎氏を父に、やえ女を母にもって、薫陶よろしく育った氏は、効時より御法義を相続して信心の念篤く成長し、昭和の初め現ミヨ子夫人と縁あって結婚する場合にも、第十八願易行他力の信心を説く浄土真宗を将来共に信仰することを条件とした程の筋金入り念仏者になっていた。性来覇気剛謄、寡言実行型の氏は、少年の頃から南米の宝庫ブラジルへの移住を夢見ており、好伴侶を得て勇気百倍矢も楯もたまらず、父母や親戚を説き伏せて、遂に昭和二年十月もんてびでを丸に乗船し一家を挙げて渡伯した。着伯当時の氏は気候風習言語凡て異なる当地に慣れる為、聖市に於て腕に覚えの大工職を営むこと三年、抱負と理想を実現さすべく聖市郊外カンポ・リンポ又イタペセリッカ地方に借地して、焦燥の気を押えつつ、馬鈴薯や蕃茄等蔬菜類を栽培して、ブラジル百姓の苦難を十二分に体験し、約十年の後聖市に戻り、指物業とキタンダ閑(※開?)業、独自の腕前を発揮して内外人の信望を集め、断然群を抜いて今日の大をなすに至った。その間カンポ・リンポ在往当時推されて日本人会副会長を勤め、子弟教育の急務をとい説いて日本人小学校を建設し、理想的な青少年育成の為夜学塾を開いて在往者から大いに感謝された。又戦後は日系青少年退エイ的な脱状態(※?)を憂えて同志川端三郎氏と計り、聖市近郊青年連盟をつくて(※ママ)青少年の思想や運動を善導するに努力し、それに関連して柔道の道場を設置して若人の心身を鍛錬するなど、氏の青少年に対する貢献は枚挙にいとまがない。
指導的な氏は非常に温健篤実な気風の一面、正邪の観念が高く薩摩人の直情径行という純情果敢な性格を備えた苦労人で、終戦後のコロニヤの思想混乱は謙虚な人間愛を忘れた邦人社会の罪であるとなし、それらを救う最良の道は宗教心かん養以外に法はないと考え、同志と計って当時孤軍奮闘、布教中の生駒眞證師を助け、個々の活動より前伯的な運動へと此の時を機に今日まで弘法の道にはつきものの茨の道を歩み続けたのである。その間全伯仏教会が創立され、本願寺別院が出来、地方に仏教会やお寺が建立されて本山より多数の僧侶が来伯し、遂に搭載量本願寺の発作、門主(※ママ)の御巡錫とまで発展し大乗仏教花と咲く今日のコロニヤ仏教界を現出するに至ったのであった。
尚聖市ピネイロス区に三年前より本派本願寺の報謝講を設け、その講頭を勤めている氏は、現在全伯仏教会の監事であり、伯国武道館の道場主で、家業の傍ら多くの公職に就き重きをおかれているが、その蔭には常々夫を扶けて家庭的に後顧の憂なき様細心の気を配るミヨ子夫人と、情味豊かな風格を受け続く(※ママ)子息達の協力を忘れてはならない。てまあれ当地では稀に見る堅実な篤信一家であろう
 
家族 妻ミヨ、長男譲、次男亮一、三男睦男、四男嘉男、五男敦男、六男譲二、長女百々子、次女八重子


なお、より詳しい考察や、大谷派のブラジル開教と鹿児島の開教の類似性、また、古代の日本における仏教の布教や聖徳太子に関してなど、雑多なトピックを交えたレジュメが、当派、九州教学研究所鹿児島分室の機関誌『栴檀樹』(2022年発行)に収録されています。機会があればぜひご笑覧ください。

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